2024.01.09
🔛道具、モノに心を奪われれば、思考は疎かとなる‼️
中学受験生に、高級シャーペンが流行っているらしい。火付け役は、ユーチューバーとのこと。
高級シャーペンを使えば、高偏差値校にも受かると考えたのか、それとも高偏差値校だから高級シャーペンが似合うと考えたのか、
いずれにしても物に毒された現代人にありがちな発想が、小学生にまで浸透したのか、と唖然とする。かなり前になるが、伊豆に旅行したとき、泊まったホテルの夕食に向かうとき、太った、十分甘やかされた小学5、6年生ぐらいであろうか、贅沢そうな、商人か、父親らしい恰幅のいい男とその家族とすれ違った。ちょうど食事を終えて出てきたところなのだろう、小学生は「ここはまぁいい食事だったな」みたいなことを言っていた。おそらくそういう経験を何度かしてそれがあたりまえのような生活をしていたのだろう。「こいつろくなものにはならないだろうな」と頭に過ったのを覚えている。
モノにこだわる小学生の話しを聞いて、自分で稼いで買ってるわけはないし、どうせ偏差値の高い中学を受験する子の親の、それくらいの贅沢はいいのかな、それに学用品なのだからという甘い意識から出たものだろう。
すべて親がかりの子が、高価なシャーペンをペンケースにびっしり詰めて、志望校によって使い分けているなどと得意げに話している。異様な光景である。少なくとも「こんなクソガキ」はろくなものにはなるまい。
親ガチャというけれど、確かに親にカネがなければ教育は受けられるないが、その親が何も教育していない、オレ様の言いなりとは、呆れて、言葉もない。
子のわがままを聞いてやる、近頃の節操のない、親のありようそのままである。
私たち日本人は、大切な何かがすっぽり抜け落ちて、目先の利益に誘導されるだけの生き方をしているのではないか。
政治は堕落して、多数派はその地位を死守しながら、利権構造をめぐらし、税金を搾取することばかりやっている。イベントがあれば、予算の中にまず自分たちの利権搾取を折り込み、国民を騙す。国民は本当に馬鹿だから、いくらでも騙される。
政権は腐敗し、わたしたちは、本物の政治家というものを知らない。
高級シャーペンにこだわる子どもが、大人になって、なによりも自分の私益を優先させることは目に見えている。親が子に何が大切なことか、まるで教育してこなかった、いやカネでなんでもなんとかなるという教えは体得させたのであろう。
感受性に支配される社会
現代の若者の風潮そのままに、感情、感受性で動く、その軽薄性は失笑するほかない。総じて、感受性で物事を判断する人間は、最終的には、試験というものに馴染まないであろう。
大学受験は、感受性人間を予備校が感受性に訴えながら、名物講師と言われる感受性につけ込むのが巧みな講師が受験生の感受性に見事に取り入りその心を掴む、そういう流れが定着している。つまり、今の日本の大学受験は、予備校もしくは進学校先導型のシステムである。受験生は、講師、教師の言われるようにやれば、能力差に応じて、合格する流れになっている。
そうなのである。まだ感受性で凌げる。
難関試験は、感受性人間には、超えがたい試験として立ちはだかるであろう。難関試験にモノにこだわる感受性人間の性癖は通用しない。予備校は、ここでも感受性型講師が人気がある。ただモノに毒された、感受性人間には、難関試験は、不可能なものとなるであろう。
わたしたち、人間は、モノとの付き合い方次第で、人生の成否も決まるような気がします。
少なくとも、モノに支配される、操られる、左右されるのは、間違っています。
旧司法試験時代、何年も受験するのは、わたしは、モノに支配された人間なのではなかろうか、と思います。難関試験ということで、基本書を神聖なモノとして扱い、線を引くのも、定規を使うなど、本に汚れがつくともう使えないとか、何かおかしくなっているのです。昔、司法試験書籍売り場には、かなり神経質な男が、平積みされた本の中から一冊一冊吟味して本を選んでいる光景を見たことがあります。こういう男は他の本の扱いが粗雑、乱暴で、怒りを覚えたものです。こういう神経病質の男が司法試験の受験には、相当数いたと思います。こういう男は何年経っても受からないと思うのですが、仮に受かったとしたら、とんでもない裁判官、検事、弁護士が「いる」ということになります。
モノを自分の目的の手段以上のものではないと考えることができないで、モノを神格化してしまう、勘違いした人間がウヨウヨいるのが現代社会です。
モノは「利用」するものです。モノは、利用されてその役目を終えるものです。モノを目的と同格に格上げして、いやいつの間にか手段であったはずのモノこそが大切に手扱われる,モノを敬うバカにだけはならないでください。
高級シャーペンに心を支配された、勘違いのバカ小学生が、このような精神をスタンスとしてその後の人生を生きるのかと思うとその末路はもう見えています。
本は、ただの手段です。
私たちは時としてモノを神格化する傾向がある。9.11テロのとき、ビルが今にも崩壊するとき、いったん脱出のため階段を降りていた人が、ある理由で引き返した。20万円以上した、お気に入りのジャケットを取りに引き返したのではないか、と言った人がいた、そのまま逃げていれば助かったかもしれない、よくテレビドラマでも火事の中に飛び込んで、形見の品を取りに戻る、という場面が描かれる。
物は、私たちには、欠かせない。確かに、思い入れの深い物である。しかし、それは、命と引き換えにはならない。また、モノに取り憑かれるあまり、生活がモノを軸に動くなど、本末転倒も甚だしい。
私たちは、ともすればモノに影響され、心はモノにかしずき、モノに忠実なしもべとなりがちである。骨董に凝る、何々に嵌る、趣味が昂じて歯止めが利かなくなる、
モノとの付き合い方
お気に入りは、基本一つでいい。ほかに二つ三つある。そこまでである。要は、ほどほどにということである。豪華なモノ、贅沢なモノは要らない。
しかし、質のいいモノ、職人が仕上げたモノなどには惹かれる。
モノに依存は、主客転倒である。私たちは、思考することを本業とする。思考は言葉を操ることでつくられる。言葉は飽くまで思考の道具である。しかも、言葉の場合は、言葉の量と質が、思考の質を決める。
モノに依存するのは、なぜダメか。そもそも依存がダメなのである。なんでも依存は、人間をダメにする。主体がなくなる。思考がなくなる。将来を描いて自らの意志で未来を拓くということがなくなる。
もちろん書物でもそれは変わらない。書物依存は、やはり思考停止をもたらす。情報過多が頭を混乱させるのは、みなさん承知である。
思考の取扱説明書
思考は突然停止したり、麻痺したり、混乱したり、なくなったりと、その取り扱いはなかなか厄介である。
思考停止するのは、情報過多の場合が、顕著である。人間の脳というのは、コンピュターに似ていて、一度に大量の情報を認識しようとするとパニックを起こす。また分厚いテキスト、わたしの経験では、国家試験のための教材には、500ページ以上のものが普通に売られている。しかもこれ1冊というのではなく、10冊以上読まなければならない、として売られている。難関試験だからしかたないと、これに果敢に挑戦すれば、確実に脳は壊れる。
そもそも人間の脳は、大量の情報を消化するようにできていない。かつての司法試験や司法書士試験の参考書が、そういう人間の本性を無視したものであった。予備校がそれまでの非合理的な勉強を糺した結果の流れであった。それまでは、例えば、民法なら我妻栄の民法講義(総則・物権・担保物権・債権総論)、ダットサン民法などを読むか、松坂の民法提要全五巻を読むか、など分量もそうだが、わかりにくい文章に悩まされながら、結局何が書かれているのか、判然としないままに、それならと問題集に飛びつき、問題集から、何を書いてあるのかを逆推理し探ったものだ。
やがて予備校が、そういった無秩序な状況に、確定的な内容に整理したテキストを講座とセットで売り始めた。最初は、疑心暗鬼であったが、次第に席巻し始め、いつしか予備校なしには受からないところまできた、さらにほとんどの受験生が予備校を利用するため、学力の均一化、さらなる学力の高レベル化、試験の高難度化が進んだ。受験生のための予備校が、試験を難しくしていった。受験生が効率のいいテキストを使ってレベルをあげていった、のだ。
今の予備校は、テキストを売りにして、タレント並みの高テンションの、あの松岡修造のような熱血講師の授業を売りして、受験生から高い受講料を集めることに特化している。魅力のない講師は切って捨てられる。まさに受験生は神様である。
弊害
試験の高度化は必然として、その高度化が、テキストの精緻化、つまり情報過多をもたらした。
わたしたちは、情報過多という思考を一瞬にして停止させる毒と対峙しなければならないのだ。
思考取扱説明書
脳は一度に大量の情報を認識処理することができない。
脳は、ストーリーに変換しなければ脳に取り入れることはできない。ストーリーとは、言葉で紡がれる意味として完結したショート物語である。このストーリーが脳への定着を左右すると考えられる。理解とは、ストーリーの質で決まると思います。脳を説得、納得させるに、優れたストーリーを考えつくか、これが、資質、才能です。
余談になりますが、わたしは指導において、子どもたちに、理解を実現するために、ストーリーを考えて、与えています。ストーリーは、予めわたしが創作したもの、その場の状況で即興として思いついたもの、過去の先人の遺した数々の名作などです。塾の先生の仕事は,不断に子どもたちに伝えるに適した物語を考案し続けることです。つまり,塾の仕事は宿命的に進化し続けているものでなければならない。
竹の会は子どもの思考作りを手がけて2025年10月には40年になります。わたしはどうしたら考える子どもにと成長してくれるのか,そのスキルとスピリッツを研究対象として実践の中から確かなものを積み重ねてまいりました。いつしかわたしはどのような子どもでも対応可能な指導の達人になっていたと思います。子どもの知能,個性,性格,背景としての親の真剣度などを見ながら指導の選択をしています。いつも本人を見ながらの変化に即応しての対応です。低学年だと必ず単調な作業に飽きてきますからその場合は「遊び」が必要です。よく車のハンドルでいうあの「遊び」の意味です。子どもというのはガチガチに律して教えてはいけない。子どものやる気を徐々に呼び起こしていくには「遊び」は有用です。指導というのは,全人間をとらえての,リアルタイムに刻々と変化する子どもの状況に応じての対応です。また,思考態度というものを獲得してからの指導はもちろんまたその質を異にします。いかにして能力を引き出すか,に腐心しての細かい指示になります。人間的に弱い子どももいますから,とにかく塾の先生というのは細かく気を配って子どもを観察していなければなりません。指導の終わった日はぐったりとなるのはそれだけ気を配っているからです。
子どもが思考に開眼することを願いながら指導する,している。それがわたしの今の正直な気持ちかもしれません。