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🔛中学受験、都立中受検、無塾がもたらす、落ちこぼれの産出と放流について

2024.05.11

🔛中学受験、都立中受検、無塾がもたらす、落ちこぼれの産出と放流について
 受験、受検には、それぞれ資質が必要である。この場合の資質とは、IQ100以上及び持続力と集中力をいう。公立小の現状は、14%の境界知能(IQ70〜85)児とおそらくはIQ100未満の子たちが相当数いると思われる。
 今の中学受験、都立中受検は、こうしたIQ100未満の子たちも含めて、参入しいているに違いない。そういう子たちがその他多勢組を形成し、塾産業を潤す様を呈している。
 IQ100前後の子が、大手の中学受験カリキュラムに組み込まれることで起こるのは、知的消化不良児の育成と放流である。
 大手のカリキュラムは、IQ110前後以上を想定したものであることは、誰が考えてもわかることではないか。
 多くの中学受験は、最初から無理があるのだ。それほどできもしない、自分の子どもを大手に入れて、いったいどうしようと言うのだろうか。苦しむのは子である。
 IQ100〜110でも潰される。
 ここで、潰された子らには、大手の型に無理にはめられてきた弊害が顕著である。
 カリキュラムに従った授業速度による弊害

 子どもが理解したかどうかは子ども側の責任として、仕組みを理解できないままに、問題を解かされ、解き方を授業で説明され、それを復習という名称で呼ばれる、ただの丸暗記でやり過ごしていく。当然力なんかつくはずもない。2年、3年経って、基本の欠片もない、思考力の欠落した、問題を解くとは、覚えたことを思い出すことと勘違いしている、欠陥人間が、生産されることは、間違いない。
 こういう子が公立に進めば、どうなるか。いやいや、そういう子がうじゃうじゃいるから、普通の子が努力すればそれなりにいい成績が取れるのが公立中学なのだ。ただ公立にも、受験をしたかどうかは知らないが、IQの高い子は1人や2人はいる。
 公立中高一貫校対策の大手塾に行った子は、中学受験の子とは違うレベルで、思考欠陥人間となっている可能性が強い。
 もちろんほとんどが、公立中学では、落ちこぼれるであろう。IQの高い子が、少しはいるだろうから、すべてではない。
 ただし、高校入試の対応を誤ると、取り返しのつかない失態となる。
 公立中高一貫校対策大手に行ったことが裏目に出て、学校の進度に合わせて、カネを使わないで、のんびりと中2までを過ごしても、定期テストは、その辺の塾に行ってれば、あるいはIQが100以上の子ならそれなりの成績は取れるから、親も子も「このままの成績を維持できれば受験できる」と勘違いしてしまう。中3になればわかることだが、Vもぎが始まれば、秋には都立を諦め、私立の単願推薦、つまり事実上の無試験で、底辺私立へと進路が決まる生徒がほとんどなのが実態なのではないか。

 わたしはそういう子たちをずっと見てきた。部活に燃えて、Fラン私立へと流れ、中途退学する者もそれなりにいて、卒業しても専門学校に行くかか、高卒で社会に出るか、いずれにしても公立中学の8割は社会的弱者予備軍となるのである。結局、そういう現実を受け入れるしかない。格差社会の現実は、すでに小学期から振り分けが進んでいるのだ。学歴社会が支配することから目を逸らすことはできない。
 何が悪かったのか。子どもの能力は、親のDNA以上ということは普通はない。
 昔から「子どもが受験したい」と急に言い出したので、塾を探しているという親子が竹の会に突然やってきたものです。たいていスポーツに夢中で、小5まで塾にまともに行ったことはないというのが同じでした。無塾がもたらす子の脳の粗野な状態はいつも変わりません。本当に受験したい、と思っているのか。これまで勉強とは無縁の生活を送ってきて、突然受験などと言い出すところからめちゃくちゃなのです。誰でも受検するのは勝手です。勉強も足りないのに、スポーツに時間をかける、、親は何もわかっていないわけです。
 わたしは、小学生の低学年こそ、基本を徹底して、鍛え上げてやることが、まず、大切でしょ、と言っているだけです。子どもがどれほどの能力を持ち得ているのか、たいていは、IQ100前後であろう。下手をすると境界知能(70〜85)かもしれない。そんな子たちを大手に入れたらどうなるか。最初からわかっていように、どの親も自分の子だけは例外と思っている。IQは100で普通である。難関私立は110以上の子たちの世界と思ってほしい。
 もし、IQ100前後なら、小学期に、基本から鍛え上げて行けば、とにかく受験はできる。受験ができるとは、無試験で入れるFランなんか受けなくても、とにかく競争しなければ入れない高校に入れるかもしれないということである。
 勉強するということを、わかっていない親が多過ぎる。親も子もである。バカとは、知識はあっても、価値判断できないことをいうとされている。先の水俣病患者と環境大臣との対話の際に、発言時間を3分に切って、音声を切った環境省の役人がいい例である。彼は慶應の医学部卒らしいから、知識、事務処理能力は素晴らしいのだろうが、価値判断ができないのだ。こういうのをバカという。
 自分の子が受験できるだけの能力があるかどうか、判断できない。いやできないと判断しているのに受験はやる、という判断なのかもしれない。大手塾がなんとかしてくれると思ったのか。宝くじがあたるかも、と思うあの心理なのかな。
 子を活かすのは、親の判断にかかっている。子をしっかりとしたまともな、判断のできる人間に仕上げること、これが教育である。徒に知識ばかりを、詰め込んで、思考の働かない知識バカに作り上げて、いったいどうしようというのだ。覚えたこと、どう覚えるか、ばかりを訓練されてきて、だから知っているかどうか、だけが、すべてで、自ら解決の糸口を見つけ出し、遂には正解に達するという脳の使い方を知らない。知ってるいるかどうか、知らなければなす術を知らない。それは、ちょうど、新型コロナに見舞われたときの政府の中枢にいた人たちが、次から次に愚策を講じたごときである。あるいは3.11の原発事故のとき、電源が切れ爆発寸前といったとき、政府の中枢にいた政治家、官僚たちが、ここでもなす術を持たなかった愚脳の持ち主たちであったごときである。いったいこの人たちは、勉強1番で東大に入って何をしてきたというのか。そういうば、東大大学院教授の役にたたなかったことを思い出した。何の健策も思いつかなかったこともそうだが、こういう事故を起こすまで、国民に絶対安全を言い切ってきた政治家や官僚、学者の責任は重い。しかし、すべてうやむやにされる。
 中学受験に狂奔する親子に、何を言っても無駄である。
 わたしは、未知の問題に突き当たったとき、少なくとも自らの頭で考える人間を作るのが教育の最低の使命ではないかと思う。
 教科書通りにすることしかできないバカ、教科書に載ってなければ何もできないバカ、東大出てもバカ、医者になっても銭の勘定しかやらないバカ、人を何人も殺しても医者を名乗るバカ、私たちは、何をどこかでかけ違えたのか。何もかもがおかしなことばかり。それでも人は、正当性のバイアスに引きずられる。
 
 算数、数学の解けない子は、問題文に書かれている事実を正確に読み取れていないために解けない場合が、ほとんどである。最近、東大の数学を解く機会があったが、質問者は、永久に解けない気がする、と言うのだが、数学というのは、もちろん数学言語である記号を使って論理思考を巡らすとしても、基本となるのは、国語の読解と同じである。問題の意味するところ、つまりは事実をありのままにとらえ、論理的に掘り下げていくしかないのだと思う。時間はかかってもいい。わたしたちは、事実をどうとらえるか、どう読み解くかを常に試されている。子どもたちを指導していて思うのは、事実の読み取りの大切さである。

 竹の会は、考える、思考する子どもを育てる、そのことを追究してきた塾です。来年10月には満40年になりますが、この頃になってようやく考える子を育てるということ、指導というものが見えてきたように思います。

 

 

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