2023.11.07
能力主義とは何か
カネを中途半端にしかかけられないから落ちる❗️
カネをできるだけ使わないやり方は必ず失敗する‼️
思い出すのは,親のことを思い,ノートを節約して使わないで,わら半紙で済ませていた子のこと。能力はあったのにやはり落ちた。
わたしももう40年近く塾をやってきました。その経験の中で、奇跡的と言われた合格をもたらしたのは、もちろん本人の能力、努力なのだと思います。しかし、実際は、それを可能にする、最大限効果あらしめるのは、どれだけカネをかけたか、というのが、真実をより正確に伝えていたのではないか、と思うのです。
かつての上位校合格者は、いわゆるSシステムからしか出ていなかった、ということです。
かつて竹の会には、平日5日間開始から終了まで、全時間出れるというコースがありました。通常は、週2回、一回3時間でした。この通常コースで、合格できるのは、内申がよければ、推薦合格だけです。通常の時間数では、とても力をつけることはできず、いわゆる上位都立は、無理で、ましてや高偏差値の難関私立などあり得ないものでした。
竹の会はもともと都立高校受験のための地元塾でしたから、集まるのは、それほど経済的に余裕のない家庭の子がほとんどです。いわゆる難関校受験をするのは、経済的にゆとりのある家庭であるのは、今も昔も変わらないと思います。都立高校にしても、都立中高一貫校にしても、塾代を節約する家庭からは合格することはないことでした。できるだけ塾代を節約するために、最低のコース選択をし、季節講習も受けないという選択をすれば、いや季節講習を受けても、できるだけ費用が安く済む選択を優先させる、こういう流れは、「まだ入会したばかりだから」とか、「慣れるまでは」とか、なにかと受講回避をする親の判断と符合します。
基本的に、こういう層は、受験には、向きません。受験というのは、親たちに前提として、カネをかけなければ受からない、という暗黙の了解があります。
司法試験は昔から資本試験と言われてきました。予備校に自由に通える資本のある者が受かるからです。これは司法書士試験だって同じです。
会計士試験だって同じです。予備校も2つかけもちで行く方が受かります。大学入試だって、予備校に行かなければ受かりません。というか、予備校を如何に利用するか、カネを惜しまず,2つの予備校のいいところを利用するといった合理精神がこれが合格を左右しています。
難関高校に入るために、富裕層は、カネをかけます。東大生の8割が、富裕層家庭だというのは、今では常識です。アメリカの名門大学の学生の家庭の8割以上が富裕層に属することは、ハーバード大学の教授マイケル・サンデルが、2021年4月刊の彼の著書の中で述べています。
将来のステータスは、カネで買う、これが、アメリカ発の能力主義の真実です。
能力主義、それは本人の能力と努力だけで、社会的上昇を約束する、のではない。子が受かったとき、そう思わせる、親の意図があるのは事実である、しかし,決して、子の能力と努力で受かったわけではない、能力主義とは、富裕な親が、子どもにも富裕を与えるための、カネをかける教育のことである。カネをかけられない子どもは、満足な教育を与えられない仕組みになっています。能力と努力だけで社会的上昇を約束する一流大学に入れるのはないのです。いや高卒で、社会に出る、Fラン大学出て、社会に出る、いずれにしても、社会の底辺にたむろする人生しか、手にすることしかできない制度の下に、下級国民として生きるしかないのが今の能力主義です。
能力主義とは、能力主義の本質は、決して社会的上昇を約束する社会ではない。能力主義とは、親ガチャのことである。親が経済的にゆとりがある、そういう親が、カネに糸目をつけず、子に教育の機会を与える。機会均等ではない。私立中学を受験するとすれば、早い時期から、進学塾に通い、親は、子どもに勉強の機会を最大限に与えなければならない。高校入試だって、よりいい高校に入るためには、親がカネを用意しなければならない。塾に十分にカネを出せない家庭は、脱落するしかない。能力主義とは、親にカネがあるかどうか、ということであり、貧困層は拡大再生産され、能力主義社会は、固定され、医者の子は医者になり、1%の高級国民に富が集中し、貧困層が社会の多数を占めるという構造は、まるでかの封建制度のように、固定される、
私たちが、社会的上昇を果たすには、教育にカネをかけ、一流大学卒、名門大学卒の威信を手にするほかないのです。社会が、大学の選抜による、能力評価を信頼する、大学の威信を認容する限り、私たちは、上級国民の世界に踏み入るには、学歴という隘路しかないことを知らなけれならない。教育にカネをかけられない家庭は脱落していく、そういう社会である。
落ちて塾に文句を言うのは、教育にカネをかけられない層である。かれらは、決して徹底してカネをかけたわけではない。しかし、工面して出した。その思いが、落ちたことに対する不満として溜まる。中途半端にかけるなら最初からカネのかかる受験などやるべきではなかったのです。
教育を投資と考える層は、投資が100%確実なんて最初から思っていません。落ちれば、単に投資がうまくいかなかった、それだけのことと考えるだけです。
カネにゆとりのない層は、カネをかけたのだから、失敗なんてありえないと、思い詰める。しかし、いうほどにカネをかけたというほどかけたわけではない。また、試験というものは、もともと失敗は当然組み込まれた制度であって,最初から8倍という異常倍率は、8人受けたら7人落ちる試験ということであって,落ちるのが常識の試験なんです。まるで100%合格できるような口吻に受験というものを理解していない人たちなんだな、と言葉を失う。
公立中高一貫校制度は、ゆとりのない家庭にも、社会的上昇の機会をもたらしたともてはやされたけれど、結局、能力主義、つまりカネにゆとりのある層が、機会を独占することになっただけです。能力と努力さえあれば社会的上昇の機会は保証されるという、貧困層の一縷の希は微塵に打ち砕かれました。
社会は、能力と努力だけで、社会的上昇が果たせるようにはできていません。富裕層は、能力主義が、カネで発揮できることをよく知っています。こうして富裕層は富裕層であり続けることができるのです。貧困層は、社会的上昇の機会は、ほとんど99%「ない」ということを知るしかないのです。
世の中の人は、素朴に、あの子は頭がいいから合格できた、と考える。しかし、開成にしても、筑駒にしても、能力と努力だけで受かるわけはないのです。カネをかけたから受かったのです。夏期冬期と目一杯出たから、つまり、カネ。かけたから、合格できたのです。頭がいいから努力したから受かったわけではない。
何度でも言う。教育とは、投資です。能力主義とは、能力と努力だけでは、受からないという主義です。カネがある者が社会的上昇を果たす、仕組み、それが、現代の能力主義です。