2023.02.18
桜修館合格の「期待」‼️
「期待」という意識について
「期待」が、もたらす不合格の構造
自尊心と期待
褒められると、自分は期待されていると自尊心は鞏固になる。期待を餌にして育った自尊心は必ず失敗をもたらす。
自尊心だけが大きく肥大化した子は、努力を忌み嫌うようになる。これは、自分の才能を持って生まれた天賦のものと信じるからである。
自尊心が独り歩きするようになると、難しい問題を回避する行動を取るようになる。これは本音のところでは、自分の実力を悟っているのか、それとして自分の能力を曝け出すリスクを避ける選択をするのか、とにかく、自尊心の強い子というのは、勝負を避ける傾向が強い。これは、自分の実力を赤裸々に晒すことは、そのまま自尊心を傷つけることになるからと思われる。試験には、まるで向かないタイプであることは説明の要はないであろう。
期待は不成功に導き、不期待は、成功に近づく❗️
軽い鬱の人は、期待よりも悲観する見方をするので、期待バイアスがかからないから、正しく物事を見ていると言われる。そういえば、本番が終わった後、期待バイアスをもった人は「できた」と言い、悲観的な人は「できなかった」というけれど、「できた」という人はたいてい落ちている。「できなかった」という人も、期待バイアスの強い人がそう言うのは本当にできなかったのだろうが、悲観的な人のそれは、微妙である。実力のある人ほど深いところで悩むのでできなかったと考えてしまう傾向が強いからである。実力の浅い人は、楽観的であり、期待も強いので、浅いところでできたと思い込んでしまうだろう。
同じ「できなかった」と言っても、深いところまで考えて、悩んで出した答えのため、それでできなかったと言っているかもしれないのである。
わたしたちは、「期待」という、ある種のバイアスによって、常に脅威に晒されながら、日常の判断をせざるを得ないのだ。
恐れるのは、「期待」は、人間から予測能力を完全に奪うことである。人間の行動というのは、常に、なんらかの予測に基づいている。予測というのは、思考の主要な仕事である。だから予測能力を奪われるということは、思考を奪われることになることである。
自分の意識の中には、成功への期待が渦巻いている。しかし、褒められて育った自尊心由来の期待は空疎なものである。
正当な期待とはなにか
実行に裏打ちされた期待は、中身のある期待である。期待は、実行によって確固な確信へと転じる。褒められて形成された自尊心は、空疎な期待を量産することしかできない。
因みに、実行は、自信の根拠ともなる。実行しないから、失速するのである。実行しない人の持つ、期待は、自尊心が生み出したおよそ実体のない空気のようなものである。
わたしたちは、倍率6〜8倍の試験を受けることにしたのである。誰もが受かると思いこんでいるが、実際は、ほとんどが落ちる試験である。
だからこそ、わたしたちの心、周りの心には、「期待」という魔物が棲みつきやすいのである。そうなのである。期待は魔物である。この魔物は人間から予測能力を奪いさる。これは試験には致命的である。
楽観的な人たちは、みんな失敗した。楽観は、期待の生みの親である。また楽観的な人たちは、平気でマイナス行動をとる。試験6か月前あたりから、マイナス行動を散々取ってきた人たちが、湧き起こる不安を楽観で忘却することができなくなって、というのは次々に目の前に明らかになる積み残してきた、スルーしてきたレジュメのヤマに現実を無視できなくなり、新たに心に沸き上がる焦燥が、遂には楽観を不安と恐怖に塗り替えていくのを止められなくなるからだ。断末魔の心というものをわたしは冷ややかに眺めてきた。楽観は空虚な期待を生み出し、やがて空疎な期待は水蒸気のように蒸発して、現実が楽観をたちまち消去し、不安が支配する世界に取って変わられる。いつも見て来た光景だ。