2023.02.20
桜修館合格の研究1
不合格体験記こそ役に立つ‼️
合格体験記、成功体験は、実は、額面通りには、受け取れないことが多々ある。特に、大手塾のそれは何か別の意図が垣間見れる気がするのはわたしだけだろうか。司法試験は過去において難関とされた国家試験であるが、今は原則法科大学院に行けば受かるので、過去の司法試験の体験記のような弊害は少ないかもしれない。過去の司法試験の体験記は、合格者が「こうやったから受かった」というものがほとんどで、超主観的なものであった。「自分はこの方法をとったから受かった」という、その方法の正当性の根拠はあげて合格である。合格したらすべて正しいという前提で書かれた方法であった。だからその論理はいかにも粗い。「合格」というバイアスがかかった主張は、実は、好ましくない方法も当然のように取り込むものであるということは想定しなければならない。
実は、なんで合格したのか、どれがよかったのか、そんなことは当の本人にもわからないのではないか。あげて本人の主観である。
「何をやったら」というのは、主観の極地である。
何をやったからではなく、別の要因はどうなのか、である。知能が特に高かったことはないのか。実行力が並外れていたということはなかったのか。勉強にかける時間量が半端ないということはなかったのか。予備校・教材・その他諸々の費用にかけられる資金に恵まれていたということはなかったのか。はたらかなくても勉強に時間をかけられる事情などの要因が実は決定的かもしれないのである。
東大理Ⅲに合格した人(聖光学院から)が、自分の勉強のノウハウ本を出していた。古本で買って読んでみたが、確かにいいこと書いてある。ただ気になるのは、この素晴らしい勉強方法を取ったから受かったのか、である。そうではなく、天才的頭脳だから受かったのではないか。方法というのは、自分の高い知能が求める方法をその過程において工夫しながら取ったということではないか。その自分の方法だけを取り出して、この方法を取ったから受かったというのは違うのではないか。またその同じ方法を凡才が真似したら受かるのか、というとそれはない。
繰り返しになるが、方法というのは、それだけが、独立して意味を持つことはない。少なくとも勉強においては。
方法というのは、その人の勉強の過程において、必要に迫られてそれこそあれこれと葛藤した結果、生まれるものであって、天才が考えた方法はその天才のみが使えるのであって、天才が考えたからといって、それが万人に通用するわけではない。方法とは、勉強の過程で、その葛藤の中から生まれるものであって、その方法は、それを考えたその人個人にしか使えないものだ。天才の葛藤から考え出された工夫(方法)を凡人が真似しても、頭が良くなるわけではない。方法というのは、大工の道具のように道具だけが売られているのとは違う。
かつて司法試験の勉強には、基本書をマーカーを使って色で塗り分けて使うというのが流行ったが、これもある若い東大生がこうやって受かったと書いたことからたちまち流行り出した。方法だけが一人歩きして、この方法を使えば効率よく受かるとでも信じたのであろうか。
よく母親が「うちの子は勉強の仕方がわからない」と訴えるが、なに、それはただ頭が悪いだけです。方法が悪いからなんてよく言う。方法とは、勉強の葛藤の過程の中から生まれるものであって、方法が生まれないのは、葛藤するだけの頭がないからです。方法を言い出す時点で、頭が悪いと言っていることもわからないのは、その親もやはり頭が悪いというしかないのです。
不合格体験記なんか書いてもだれも読まないでしょうね。なんで失敗したのか、自分はそんなやり方をしない、そういう反面教師となるのですね。
成功したというとき、何が良かったのか、実はわかっていない。本人はこれだと思っただけで、実はわからない。しかし、なぜ失敗したかは、わかる。新型コロナワクチンが良かったのか、誰もわからない。ワクチンが効いたから感染しなかったのか、その証明こそ不可能だ。しかし、ワクチン打って死んだのはわかる。もっとも政府・厚労省は因果関係はないと言うだろう。しかし、ワクチン打たなければ死ぬことはなかった。打ったから死んだ。コロナに感染して死んだなら、死因ははっきりしている。ワクチン打った後に死んだなら、失敗の原因はわかるのだ。
不合格からこそ学べる。しかし、世の中には、不合格体験記などない。役に立たない合格体験記しかない。しかし、わたしは、塾の先生だ。30年以上不合格の現場に立ち会ってきた。不合格者の生活態度、勉強の実態を見てきた。不合格の原因は手に取るようにわかる。だからわたしのブログは辛口、厳しいことを言うことになる。すべて不合格体験からの教訓なのだ。