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🔛人に説明するときは、抽象的に俯瞰していないと説明できない

2023.11.14

 🔛人に説明するときは、抽象的に俯瞰していないと説明できない
 「わかる」とは、抽象的に鳥瞰すること
  読解とは、具体的なものを抽象的なものに言い換え、抽象的なものを具体的なものに置き換える、精神の働かせ方をいう。
 磨くのは、鍛えるのは、抽象化という精神の作用である。
 抽象化とは、諸事象の共通項を見つけて、それを一つの概念とすることをいう。
 小学生が、「わからない」というとき、具体的なものに法則化した規則を適用できないからである。われわれは、無秩序に見える事実の中に何か規則性、法則性があるのではないか、と思索をめぐらすのである。あるいは脳の未分化なままに、幼年期の脳をそのまま小学生低学年を過ごすことが、脳の発達を遅らせる、ということは知らなければならない。
 わたしが、小学生低学年、2年生を指導開始の好機と考えるのは、未分化な脳を分化させていくには、このタイミングが、絶妙と考えているから。確信するからである。小1では早いかな、という程度である。小2は確かにまだ幼い。しかし、この頃には、世の中のことが、次第に見えてくる。塾の中でのやり取りを通じて、未分化な脳は徐々に分化していく。最初は、大まかな、大雑把な分化の過程を辿るであろう。未分化が生み出す様々な誤解、誤判断、誤思考を一つずつ減らしていく経験を積むであろう。
 わたしは、脳の未分化に効くのは、計算という形式的ではあるが、抽象的な精神作用の究極の訓練がもたらす脳の分化ではなかろうか、と思う。計算指導の方法も、竹の会では、工夫が重ねられてきた。年を重ねるごとに、指導の方法は、進化し、つまりより早く計算の習得を可能としている。なかなか通分を理解しない子、教えられてもすぐケロリと忘れる子、それは理解とはほど遠い位置にいるのですが、わたしは、子どもを見ながらちょっとだけ工夫して、やり方を変えるなど、して、切り抜けています。とにかく一つできるようになると、子どもというのは、そこが突破口となって一気に理解が進むということがよくあります。指導というのは、如何にして、「わかる」→「気を良くする」の波に載せるか、が腕の見せ所みたいなところがあります。ただある程度解けるようになるには、単調な、同じことの繰り返しに、飽きないで、嫌がらずに、やり続けられる性格が最低限要件となります。
 まったくやる気のない、ダラダラした子、取りかかれない、続けられない、そういう子は、勉強には、向かないと思います。
 計算は、小2の夏から訓練すれば、小3の春には、難関中学の計算問題も解けるようになります。計算というのは、凄まじいほどの抽象的な精神の働かせ方をします。カッコがあれば、小さいカッコから先に計算する、かけ算、割り算は、足し算、引き算より先に計算する、仮分数に直す、通分する、計算する、約分する、割り算を掛け算に変えるために、逆数にする、また約分する、また通分する、と計算操作は、目まぐるしく頭が使われます。精神作用の訓練には、最適なんです。
 多くの小学生が、逆算で壁に突き当たります。頭が硬い、操作を繰り返し覚えただけの頭では、どうしても逆算のやっている理屈がわからない。
 逆算というのは、ものは考えよう、という思考の柔軟さを知る機会であるわけです。実は、これまでの計算操作で学んだことは、考え方の問題だというところまで気がつくか、消極的ですけど、逆算は、一つの試金石なわけです。計算操作がなかなか理解できないというのと、また次元の違う一段上の精神作用の話しです。
 こう考えたらどうだろう、という思考の働かせ方、そういうことができるようになったら、それは次元の違う世界に舞い降りたということです。
 話しを最初の、抽象化に戻してみましょう。
 抽象化の定義は、複数の事象から、共通点を取り出すことでした。しかし、この定義では、そのまま読解には適用できない。
 なぜなら、読解では、複数の事象ではなく、たったひとつの文章が、前後の文章との比較において、どちらが抽象化されたかを問うものだからである。
 読解を磨くとは、二つの文の比較において、その抽象度を、つまり、何がどう抽象化されたのかを読み取ることである。これを読解という。
 抽象化を読み取ると言っても、大学入試、わたしが検討したのは、早稲田大学の現代文であったが、二つの文を比べるだけという単純なものではなかった。例えば、Aという文の次に、Bという文が来たとして、どちらが抽象化されたのか、と普通は考える。そう、普通は、それでいい。しかし、Bが、Aと似ても似つかない、どう考えても全く関係ないような文ということがよくある。いったい筆者は、どういうつもりなのか。と怒りさえ湧き起こる。しかし、そうではないのだ。確かに、二つの文だけを比べたら、全く関係ない文に見える。しかし、抽象化というのは、筆者が、抽象度の高い概念を創造的に使い表現することがある。その抽象語は、どこかで、筆者が、定義していて、その定義にしたがい作出した、ほぼ造語と言ってもいい。だからその文だけ読んでも何を言っているのか、わからないのだ。わたしたちは、その文の元となっている定義文を探し出して、その定義に従って、その抽象語が、与えられた意味を基準に読み直して、その意味のつながりを調べなければならないのだ。これが読解ということの内容の一つである。
 さて、そうなると、国語の読解の訓練は、文と文との意味をつなぐことの練習でなければならない。国語の文というのは、言い換える、ということを基本にしている。抽象的に記述したら、具体的に言い換える。あるいは、さらに別の抽象語で言い換える。さらに抽象語で言い換える。今度は、具体的に言い換える。その連続である。
 国語における読解とは、要するに、言い換えられた形から、元の、言い換えられた元の文を見つけること、それは言い換えれば、言い換えを発見することが、意味をつなぐからである。読解とは、最初の文から最後の文までの意味のつながりであり、意味、すなわち関係把握、意味によって関係づけられた関係の理解である、
 小説の場合は、よく問われるのが、登場人物の心情、その変化である。わたしたちは,自分が登場人物になり代わって心情はきっとこうなのだろうと推測してはならない。飽くまでも、文章に表れている、心情を表す行動、行為、発した言葉から客観的に、常識的に推測しなければならない。本文に書かれている言葉以外は根拠にはならないのだ。行動から、言葉から、心情を想像するとして、核心は、心情の変化、因果関係である。常識的な心情の変化を具体的に描写すること、である。

 

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