2023.11.21
🔛忘れるのは、人間の本性‼️
忘れるのは、人間に本来備わる、生存本能に由来する、ものとされる。
人は無関心なことには、恐ろしく冷淡である。これも人間の本性に備わった、生存本能に由来する、ものである。
よく他国で起きた災害、事故で、多くの人が死んだというとき、気の毒とは、思っても、それほど悲しまないのは、生存競争は、弱肉強食、勝者と敗者の世界に生きている動物の生への本能的な行動であり、他者の死は、そのまま生存競争の勝ちを意味する、からであろう。
むしろ他者の死は、優越感をさえ遺す。
忘れるというのは、また、別の本能的性能である。人間は、忘れることによって、苦しみ、悲しみから、解放されてきた。忘れないということは、ずっと苦しみ続けろ、悲しみ続けろということで、これに耐えられないからこそ、神は、生存のために、忘れるという機能を付与したものであると思う。
また、忘れるから、日常の雑事に悩まされることなく、仕事に専念できる、没頭できる、と言えるのではないか。
わたしたちは、日常のあらゆる場面で、「忘れる」ことで、心の平穏を保つことができる。
以上の本能的に抹消される「忘れる」対象は、意思と関係のないところで起きた、嫌なこと、災害に遭う、肉親の死、落第、裏切りなどいつまでも忘れないでいることが、体に明らかに良くないと思われるものである。
試験では、忘れることは、試験の失敗を意味する。この忘れてはいけない事項は、別に、体を壊す記憶ではない。当面必要な知識である。知識は、写真的に、脳に複写するのは、そのようにできていない。知識をバラバラに記憶に遺すことも脳には不向きである。脳の記憶庫に入庫するには、わたしたちが、学んできた経験が教える方法しかない。
すなわち,反復繰り返すこと、意味により関連づけること(論理的な体系枠組みをすること)、である。
意味のないものの記憶は、わたしたちは、語呂合わせという方法を発明した。語呂合わせが、面白い、傑作であるほどにこの方法もバカにできない。
事実、わたしは、大学入試のとき、語呂合わせで、克服した科目もある。もちろん、基本は、反復繰り返しであったが、例えば、英単語、古語、年表は、語呂合わせ以外なかった。わたしは、日本史と世界史を選択したが、この2科目は、ともに、当時出ていた「山川用語集」の反復繰り返しであった。20回以上回した。この繰り返し法は、わたしの定番のやり方であった。この繰り返し法で、マスターしたものに、原仙作の「英文標準問題精講」とZ会の数学I・IIBがあった。そのほかに、現代文は、「新釈現代文」、古文は、「古文研究法」を回した。わたしは、漢文と、生物は、結局、勉強しなかった。生物は、数研出版のB6判型の薄い問題集を使ったが、結局パラパラと見ただけで終わった。漢文も似たような無名の参考書を買ったが、一度ぱらぱらと目を通してはみたが興味が持てず、それで終わった。結局、何もやらなかったに等しい。
わたしが、「やった」というときは、最低20回以上繰り返したもののみである。それだけ繰り返さなければ、頭に残らない。いや20回以上繰り返しというのは、実は、予想外の効果にこそ意味がある。繰り返しの効果は、記憶したことが、脳内で、融合し、化学反応類似の反応を起こすことである。例えば、バラバラに読み込んだはずの数学の解法が、融合して、再構成されて、有機的な結合をなす。だから未知の問題にも、この融合力が柔軟に対応することになる。竹の会は、発会当初から、この解き直しによって、実績を積み重ねて来た。
忘れることは、本能だが、勉強すること、つまり、知識を忘れないことも、生存には必要ということが、本能的に受け入れられるなら、忘れないという選択をする能力も備わっているのではないか。忘れないことが、生きるために、生き残るために、必要なら、それは本能に訴える力がある。
ということは、あなたたちが、どれだけ覚悟して、勉強しているか、ということになる。覚悟がないから覚えられないのだ。それは生存競争に生き残る、勝ち残るための勉強という、覚悟だ。
人は無関心なことには、恐ろしく冷淡である、これも人間の本性に備わった、生存本能に由来する、本能である。
無関心なことにまで、エネルギーを使っていたら、いくら命があっても足りない。無駄にエネルギーを消耗しない。これも勝ち残るための、生存のための、選択の一つである。他人のことに冷淡なのは、人間本来のDNAから来るものである。無関係なことを無視するというのは、人間の「忘れる」機能と根は同じところにある。
生存するというのは、人間においては、心の安定を保つことが、なによりも重要とされるからである。精神の安定は、健康に生活する前提要件となる。精神の安定は、経済的安定によってもたらされるのが普通である。もちろん人間は様々なストレスに囲まれて、生きているから、そのようなストレスが、精神を蝕むことはあるであろう。人間関係のもたらすストレスから精神を病む人も多い。だから経済的理由というのは、あくまで一般的な話しである。
わたしたちは、心を穏やかにしていることこそ、理想と考える。日常というのは、日常の枠内にあることは、特に、考えなくていい、つまり、精神を悩ませなくていい、ということであり、日常は、楽なわけである。頭を使わなくていい、安心できる、領域ということである。
だから、わたしたちは、何か事が起きると、まずこれは日常の範囲内にあることだ、と無理に日常に含めようとする。
3.11の大震災のとき、地震から数分が、生命の分かれ道になった。このとき、犠牲になった人たちは、いわゆる正常性バイアスが働いて、地震の後の津波を、日常の中の出来事として認識しようとした。だから思考は停止していた。津波は大したことはない、と日常の出来事にしてしまった。
わたしたちは、できるだけ考えないように行動する。それが本能がある。できるだけ頭を使わないようにと、動く。楽な方に動く。勉強しないのは、そのためだ。小学高学年になるまで勉強してこなかった子は、もう勉強する姿勢にはない。低学年までにそういう楽をする日常が固定化されてしまったのだ。
わたしが、竹の会に入会させるには小2がベストと言っているのは、その意味だ。子どもを低学年のときに、放置しておくのは、何もしないという習慣,何もしないのが楽だという意識を固定化する,習慣化する逆訓練を重ねているようなものだからだ。低学年時にこどもにとって「何もしなくていい」という生活を是認することは,将来において使いものにならない子にすることにほかならない。