画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🎵2匹目の泥鰌(どじょう)はいない‼️

2023.06.27

🎵2匹目の泥鰌(どじょう)はいない‼️
 二兎を追う者は一兎をも得ず❗️ これは同時に二兎を追う場合の話しです。

 一度成功を収めた人や物事に準じて後釜になろうとすること、あるいは既存のものを真似して作られたものなどを意味する表現。
一度成功を収めたからといって、再び同じようにうまくいくとは限らないということを意味することわざ、「柳の下にいつも泥鰌はいない」から派生して現在の用法となった語。

 この格言、なかなか奥深い。よく成功者が語る成功のノウハウにしても、本当にその方法がよかったからなのか、ただ単に運が良かったということはなかったのか、単純ではない。
 宝くじの買い方なんかは眉唾で聞いて丁度いいが、大学受験の合格体験記、資格試験の合格体験記などは、難関試験に合格した人という暗示があるから、たちまち信用してしまう人も多いのかと思う。
 ここでも合格してしまえば、すべてが正当化、神化されてしまう危険が多分にある。運が良かったとしか思えない事実も選択の正当さゆえにの論理に押し潰されてしまいそうだ。嘘は必ずある。しかし、すべてが説得力を持って訴えてくる。呪いの詞のようにわたしたちの脳に入りこんでくる。
 呪い、洗脳を突破するには、どうしたらいいのか。
 一つには、原点に還ることなのかな、と思う。資格試験なら、原点となる、基本書にもどることである。大学受験なら、教科書にもどることである。それから、教科書を読む前に、自分が何のために、教科書を読むのか、考えてみることである。

 ちょっとたちどまって「そもそも」を考えてみる,そういう癖をつけるだけで瞬間に見えてくることもある。
 自分は何をしなければならないのか、問い直してみることである。
 その際に、大切なことは、普通の人間に求められていること、できること、である。そういうこととは、離れて、別の視点から、無理難題が聳え立つというのはどう考えてもやはりおかしいと思わなければならない。どんなに難しいとされる試験でも、普通の人間にできないことを要求するはずはないのである。これすべての知識が網羅的に覚えなければ合格できない、そんな無理難題を押し付けてくる、そういうことはないのだ。どんな難しい試験も全員不合格にするということはない。とにかく合格者は出さなければならない。そうなると人間としてできる範囲のことしか求められるはずはないのである。わたしたちは難しい試験ということを勝手に解釈して、それは人間の能力の遥か上にあると勝手に決めているだけである。
 いいですか。ここのところが大切です。どんな難関と言われているところでも、人間として、不可能なことは強いて来ないということです。
 普通の、いや少しだけ賢い、人間が注意深く考えれば、解ける程度の仕込みしかできない、ということである。
 そうなのである。わたしたちが、試験の範囲、難易度を測るのは、合格体験記の創作物語などでは決してない。わたしたちは、人間としてどこまでできるか、普通の、常識的な思考の範囲で答えを出すことが求められているのだということを知らなければならない。
 試験を勝手に人間の手の届かない域、特別な人間がいるかは知らないが、特別の人間の能力が求められていると想定して、その域にまで自己を高めるためにはどうすればいいか、などと考えるから、合格体験記などという自慢話を我慢して聞き、そこに真実があると信じて自分を迷路に追い込むの愚を晒すことになるのです。
 これは実際に問題を解く際にも、肝に銘じなければならないことです。難問なんて原則ないのです。必ず普通の、常識を弁えた人間に解けるように作られている。だから冷静に、常識の糸を探りながら、常識の道を探しながら、その道を進むことである。常識から見えてくる道は藪に覆われて隠れている。試験というのはそういう道を隠すのが試験なのであるから。
 もし解けない事態に陥っているとしたら、それはあなたたちが勝手に問題を誤解し、つまり常識の道を外れて、特別な、あり得ない、想定外の道を求めているからに違いないのである。
 解けないとき、壁に突き当たったと感じたときは、この道が常識の道であるのか、よく考えてほしい。
 竹の会では、令和4年の入試で、まず渋谷幕張から初めて特別特待生合格を取り、開成を受け、翌日城北、さらに最後に筑駒を受験、すべて合格、受験予定の日比谷高校は棄権した。
 竹の会は中学の3年間難関校を意識して指導してきたわけではない。わたしは、最初から難関校を目指していたわけではない。最初は、日比谷高校程度を考えていたに過ぎない。それも漠然としたものであった。わたしの頭にあったのは、いつも常識の道を外れないことであった。もちろん敵を舐めていたわけではない。いやそれどころか、常に、敵を最高レベルに想定して、そこで何が必要か、常識的な「手」を考えてきた。大手のように特別な講座、特別な教材があるわけではなかった。常に、何が必要かを問い、そこで常識的な道を考えた。例えば、開成、筑駒の国語は、全問題記述式である。通常の国語の対策では通用しないことはだれでもわかる。では常識的な道は何か。そこからわたしは道を思案した。例えば、開成、筑駒の英語は、長文の英作文が出る。文法問題はセンターに近い。長文読解はわたしに秘策あり。駿台の過去模試で80点取っても、全国順位80番ほどだ。一桁順位にもっていくために、わたしは、どうすればいいのか、思案した。そして常識の道で、7番ほどにもっていけた。中3の4月頃の話しである。そうである。わたしは中2の秋からすでに開成を意識した指導に入っていた。中3までの数学,英語は中1の冬には終わっていた。
 数学、理科、社会それぞれにわたしは常識の道を探した。社会は特に最初50%ほどでこれは大変と策を練った。
 どんな難関も常識的な道を探り、人間の能力として可能な、常識的な道があり、その道を見つけ選べば、いいのだ。多くの凡人の誤解するところは、難関だから特別な方法があると信じていることだ。だから成功者の言うことを神の言葉として信じてしまう。そういう飛びつき方の最も悪いところは、「信じる」ところだ。「信じる」というのは、何の思考もない、根拠もない、ということだ。自分で考えて、考えた結果ではない。人の言うこと、物語、虚実ない混ぜの事実を頭から信じてしまう、これはリスクと表裏であり、表の、見かけばかり見て、裏の、楽屋裏がどうなっているか、を見ないということである。子どもが親におねだりをするとき、いいところ、いいことばかりを言い募って、マイナスはゼロのように言うのと同じ、営業マンのセールストークというのと同じです。宗教の勧誘、いや何でも勧誘はそうですね。いいことしかないようなことを言う。わたしたちが知りたいのは負の面なのに。
 それで人のうまい話しは信じやすいのが人間です。わたしたち、何か鵜呑みにするところがあります。子どもたちが初めて適性問題に触れたときの反応はたいてい鵜呑みです。それも文章の一部のみの鵜呑みです。丁寧な読み取りというのができないのです。文章というのは、ある程度集中した姿勢というのが必要であって、丹念に気を配りながら、読み取っていかなければならない。ところが小学生というのはこれができない。必ず大事なところを読み飛ばしている。これは小学生の読み方の特徴です。よく読解ができない、読解力がない、ということを言いますが、小学生というのは、文章を追いながら読むということができないのです。語彙も未熟、注意力も散漫、一つのことに集中するということができない。これは多動性障害、発達障害を思わせる。そうなんです。多くの小学生はみなその要素は持ち合わせている。程度の問題なんです。このことからも、小学生は早期の訓練が必要なんです。小学生にまず計算を訓練するのは、勉強へ気を向ける習慣づけが、一つあります。それから計算というのは、集中しなければできない。集中する訓練にもなります。さらに計算をやる理由があります。計算というのは、極めて抽象的な精神作用を要する営みということがあります。小数の割り算、特に、余りのある小数の計算は、小数点の位置の意味、なぜ余りは最初の小数点を基準にするのか、といったかなり抽象度の高い理解を要します。さらに、分数という仕組み、分母の意味、分子の意味、帯分数、仮分数、真分数、繰り下がり、分数どうしの足し算、引き算の根拠、何故分母を揃えるのか、最小公倍数の意味、約分の意味、分数の掛け算、分数の割り算とこれだけ抽象的な話しはありません。ただし、計算というのは、そういう理解の側面とは別に訓練という側面があります。発達障害の段階にもよりますが、軽い発達障害なら、計算の訓練だけは何とかできるかもしれません。理論がついていかないので、逆算まで来るとパニックを起こすことが多かったように思います。
 計算は3か月前後でマスターする子が多い。マスターというのは、小2でも、マスターと言えば、私立中学難関校の計算問題が5分以内に解けるレベルです。竹の会の子たちは、徹底して計算を鍛えられます。まず指導開始の前に、計算4題を解いてから、割合などの指導に入ります。
 他塾では、割合と言えば、テキストの一単元として、ページ数にして、せいぜい4ページほどを当てて、その単元が終われば、割合は終わりというのがほとんどではないかと思います。竹の会は、割合だけで、入塾年にもよりますが、例えば、小2入塾なら、一年は計算、3年直前から、割合の導入が始まり、小3、小4、小5の夏頃まで、割合に特化したレジュメで思考訓練をします。割合のレベルは、初級レベルから次第に難度を上げていきます。割合はより広い概念で捉えています。単位あたり量の思考、縮尺、速さも広い意味の割合に含めています。割合を学ぶ過程で、普通に算数を学んでいる、というのが、実体です。しかし、思考するということを訓練されてきた子たちには、もはやどうでもいいことなのです。面積図を学び、ダイヤグラムを学び、算数を解明する、便利な方法を学んでいくのです。
 適性検査問題へと移行は、算数を鍛えた子たちには、スムーズに入り込んでいくのが普通です。
 2匹目の泥鰌(どじょう)を探すの愚
 たまたまある方法でうまく行ったとしても、二度目も同じ方法でうまく行くとは限らない。受験とは、先程も述べてきましたように、常識的な道を探りながら見つけて行くことでした。
 しかし、何度かの成功を経て、合格をもたらす方法というものに行き着くものです。それは2匹目の泥鰌ではない。わたしの中に確かに「これ」という方法が見えて来るのです。
 手探りの時代は、確かに、2匹目の泥鰌を探したのだと思います。同じやり方で,いや迷いからかつての成功時の方法を取り入れたこともあった。しかし、違ったのだ。方法というのは、方法だけが絶対化してあるものではない。常に、子どもの状態、それは性格、能力、環境、親の態度(習い事、稽古事をやめない程度の受験意識)などさまざまな事情が、方法の有効性に影響を及ぼす。
 方法が価値を発揮するのは、方法そのものの客観性の獲得、その方法の守備範囲、つまり方法の想定する子、親の資質によります。成功者の母親,時に父親というのは,決して口出しをすることはなかったけれど,しかし,教育にかける情熱はだれよりもあったように思います。季節講習なんかも躊躇することなくめいっぱい出ています。口出ししないのは信頼しているからだというのは子どものようす,時折寄せられるメールでわかります。

 受検を志すなら,小4スタートで遅いと思ったほうがいいです。最初の計算過程に数か月かかると想定して,小4の数か月を計算に費やすのは如何にも損失が見えて遅きに失するの感が強いのです。小2からスタートした子たちは小4の初めにはもう割合中級に達しています。割合中級とは,芝中水準の算数の問題が解けるということです。だから小5後半に大手から竹の会にやってきた親子は驚くのです。計算もまったくできない。割合もまったく解けない。わたしの経験ではそういう子ばかりでした。小6なのに小4よりできない,それが普通にありました。竹の会の子たちはそういうときに初めて,自分たちがかなりできるのだということを知るようです。また小2から鍛えてきた子たちは簡単には諦めない習性が身についています。

 小4期ののんびりとした勉強姿勢は小5の勉強にも影響し,小6に失速する布石となっていることを自覚してください。コロナによる油断もあったのかとは思いますが,コロナ下の親たちは小4,小5期にずいぶんと手抜きをしていたと思います。夏期指導にも出ないという子たちもいました。みんなそうなのだからとでも思ったのでしょうか。小6になってからの失速はひどいものでした。竹の会でもこれほど酷い模試結果は見たことがありませんでした。よく言うのですが,模試というのは,当然範囲学習が終わっていなければ効果はありません。終わるというのは,ふつう7回解き直しが終わる意味です。あらゆるものが手につけられていないままに模試の時期を迎えるというのはなんとも虚しいものです。小4,小5の時期の手抜きは致命的になるということだけは自覚してほしいものです。

 

ページトップへ