2021.04.03
失敗の構図 様々なウィルスの蔓延
わからないとすぐ聞く姿勢では合格はない。
摘み食い的勉強では何も身につかない。
わかるまで考える。思考力をつけるとは、わかるまで考え続けることをいう。なぜ、どうしてと問いかけて考え続けることである。ちょっと考えてわからないと、すぐ別の問題に飛びつく、これでは思考力なんてつくはずがない。
ちょっと考えて、わからないと、それで聞く、これがなぜだめか。考えるというのは、わかるまで考える、の意味である。途中放棄であることは、摘み食い的取組みと何も変わらない。
だれかにヒントをもらうとか、核心のところを教えてもらうというのは、やはり思考放棄である。
考えるというのは、わかるまで考える、の意味である。
指導というのは、わからないと悩む子に解き方を教えることではない。この問題を解くには、子どもの思考構造からは、いくら考えても無理と判断して、そこに構造の補強、新たなる構造を作ることである。しかし、これまでの思考体験から、考えればつながるはずという場合、教えるかどうか、判断を要する。要は、当該子どもに修正能力がどれほどあるのか、ということにつきる。これを知能と言えばそうなのであろう。DNAと言えば、またそうなのであろう。指導してどうにかなるかは、実に、この修正能力の如何にかかると言っても過言ではない。
これと関連して、小6から竹の会に来て合格できるのか、ということに関して、私見を少し述べておきます。
過去に、小6から来て合格した子はもちろんいます。共通点は、特に、知能が高い子たちであったことかと思います。普通の子では無理です。過去大手塾で「できる」とされている小6前後の子で、竹の会の入会試験で出題される割合の問題が解けた子は皆無です。竹の会で指導してきた子たちなら簡単に解いてしまう問題です。竹の会では、小2ないし小3時での入会を特に推奨しておりますのも、早くから訓練して、小4でそれなりの割合問題がこなせるほどにしたいからです。それは公立中高一貫校というのが、特に、算数力で決まることが決定的という判断があるからです。小6からきて高い算数力に達することはほぼ不可能と考えております。とにかく竹の会で算数力を培うのは時間のかかることなのです。
小6前後に来た子たちが痛切に感じるのはあまりにも時間がないということです。だから「もっと早くから竹の会に来たかった」と一致して言うのだ。
伸びる子、つまり頭のいい子というのは、修正する能力の高い子のことである。
考えるときは、どこまでも考える。すぐ飽きて、別の問題に取りかかる、これでは脳は少しも深まらない。ああでもない、いやこうでもないと頭を巡らすことによってこそ、脳はその皺を増やしていく、ニューロンは何度も何度もパルスを送られて、繋がった状態を保つのだ。
そういう意味で、悪い兆候を指摘された子は、勉強する姿勢を根底から変えない限り受かることはない。受かる見込みがなければ、受検を諦めるのも一つの選択である。
模試の結果の出る7月、8月には、親御さんに問われれば、わたしの見通しを正直にお話ししています。わたしはいつも問われればだめなら「可能性はない」ということを申し上げてきた。このわたしの言にショックを受けられて受検を止めるのか、関係なく受検の意思を貫くのか、それはわたしのあずかり知らぬことです。
合否判定レジュメ
今年の指導から、新レジュメを投入することにしています。すでに今年の適性指導で、まるで何かの特効薬のような効果を見せた合否判定レジュメの算数版の執筆を予定しております。
算数のテキストは、上級に進んでいても、自分で解けた問題がほとんどないという子は、まず受かることはないでしょう。もしテキストが、「推理の素」で終わったとしても、自分で解いてきての結果なら、受かる。というか修正できる子なら受かる。
親も子も様々なウィルスに感染している。
鬼滅の刃ウィルスは、新型コロナウィルスを思わせる感染力だった。
子どもたちの脳にゲームウィルスを植え付けるのは、いとも簡単であった。商業主義に狂った企業ならいとも簡単に子どもたちに高価なゲームを売りつけることはできるだろう。というか、子どもよりも大人の方が毒されている。まるで新興宗教に嵌った人のようにもはやウィルスを除去するのは、ほとんど不可能のように思われる。
公立中高一貫校ウィルスというのかある。その中でも特に小石川ウィルスは感染力が強い。平成20年頃から突然小石川に行きたいという親子が竹の会に来るようになった。そのほとんどが小石川の学校説明会に出て小石川を見学したことをきっかけにしていた。中には、小6の9月あたりからやって来る子もいた。私立受験を目指して勉強して来たということもなく、突然である。今なら考えられない。受かるわけがない。今は、小石川が難関私立の併願校となり、たとえ早くから目指しても受かるのは困難を極める。
過去問ウィルスというのがある。志望校の過去問を繰り返しやった結果、問題、解答を覚えてしまうという奴である。このウィルスに感染すると、厄介である。本体的な勉強をしなくなるからである。このウィルスに感染したら、本番では、「新傾向だった!全然できなかった」ということになる。
聞いて解くウィルス
基本、考えるという核のところが抜けてしまう、一見「できそうに見える」、本人も「できる」と錯覚をする。しかし、肝心のところを考えた経験がないから、実は、できない。
摘み食いウィルス
これは、先程述べたとおりである。ちょっと手を出しては、わからないとすぐまた解けそうな問題にてを出すとにかく摘み食いばかりして、まともに考えたことがない。だから力はない。当たり前だが、こんなことをやってたら、破綻するだけである。
じっくりと時間をかけて考える。何度も何度も問題を読む。読む人なら二、三十回は読むはずだ。その度に考える。図をかいてみる。何かないかと探す。これまで解いて来た経験から、比を試したり、相似を利用できないかと考えたり、あれこれ考える。万事休す! それでしばらく放り出す。頭がリフレッシュしたらまた取り組む。今度は全く別の視点から取り組んでみる。まさかと思いつつ、面積図をかいてみたら、うまくいったということもある。線分図をかいても妙案が浮かばない。それで「これはない」と疑いつつ、ダイヤグラムを引いてみる。そしたらなんと関係が絶妙に表せているではないか。そんなこともあった。
「考える」というのは、そういうことだ。
君たちは、考えるということが、わかっていない。
竹の会で算数を鍛える、思考を鍛えるというのはそういうことだ。テキストの問題について解き方を学び答が出せるようになるのではない。竹の会のテキストはわかるまで考えるための教材である。
摘み食いというのは、すぐ諦めることだ。
すぐ聞くというのも、すぐ放棄することだ。
繰り返すが、問題の解き方を習って、それを覚える勉強をしているわけではない。
誤解した子どもは、答えさえ合えばいいと思考をカットする。早く次のテキストに移りたいためにいい加減に、なんとも適当に済ませることに意を払う。
大切なものは何なのかを見失なう。
テキストは飽くまでも手段である。
テキストを使って、私たちは、長い時間をかけて、思考という目に見えないものを作り上げている。目に見えないものをどう作り上げるかは、君たち一人一人の姿勢にかかっている。大切なものは何? それは目に見えないもの、それは自分で作り上げなければ決して作ることのできないもの。いつしか君たちは大切なものが何であったのか見失なう。手段であったはずのテキストに惑わされる。次のテキスト、ステージが上のテキストに進めることが、目的になってしまう。いつのまにか大切なものが何であったのか、忘れられてしまい、大切なものを育てる、作り上げるということが、心の中から消えてしまい、テキストという形しか見えなくなってしまい、そのまま時が経つ。一年、二年と思考を忘れたことのつけは、ある日突然現実化する。
思考のない者が、みな同様にする様に問題に立ち尽くすだけ。思考というものを作ることをしてこなかったことのつけはそういうことである。
私たちは、これまでに見たことのないものに対したとき、唯一力になるのは、思考という、目に見えない、人それぞれによって、形も大きさも違うものであることを知ることになる。
これは私の想像であるが、思考の形は、脳と同じような皺の刻まれた、丸い嚢のようなものなのではないか。思考がないとは、この嚢が小さい。思考とは、知識の記憶、暗記とは、違う。もちろん記憶がなければ思考はできない。言葉がなければ思考は働かない。おそらく思考というのは、知識、暗記知識を濾過する働きがあるのではないか、と思う。
思考は、暗記を嫌う。しかし、思考の助けになる知識は栄養として、積極的に吸収するのではないか。私たちが、新しい概念、仮説を学ぶとき、思考の器の大きさが、大きく影響する。私たちは、だから、思考の器を大きく作り上げることに意を払わなければならない。
竹の会は、子どもたちに算数を通じて、脳の器を大きくする大事業に取り組んでいる。算数という触媒を用いて、思考、つまり目に見えないものの生育に取り組んでいる。そう意識するようになったのは、算数という触媒の研究が進む、飛躍的に進むようになって、その効果が見えてきたことである。
思わぬ効果
私の指導の効果を私自身が掴み切っていなかったということなのだろう。このところ一年、二年と辛抱強く指導を続けてきたことの思わぬ効果に驚いている。かつてはそんなことはなかった。計算に時間がかかり、不正確、割合の理解が進まない、そういう子たちのために、竹の会には、かつてない多種多様の、細かい段階に分けた初期入門レジュメを用意した。子どもたちは、理解できなければそれこそ何度も何度もそういうレジュメを繰り返し練習した。そういうことを辛抱強く、一年続ける、二年続ける、そしてある日、ふと解けるようになっている子を見る、驚き、えっ、だめと思っていた子が、できるようになっている、そんなことがあるのか。
かつてそういう経験をほとんどしたことはない。いやまだ竹の会に今のようなレジュメ指導がなかった時代、オール1の子をほとんど4にしたことや、勉強とは無縁だった子を勉強の世界に導き、高校受験に成功させたことなど、奇跡はよく起こしてきた。しかし、最近、起こりつつあることは、そういうのとは違う。もともと私はできない子はいくら指導してもだめだというところでは変わらない信念を持ってきた。今、竹の会で起きていることは、このような私の信念に意外性を持ち込むものだったのだ。どこかで今の指導には、わたしの想定外のことが起きている。
できない子ができるようになる。竹の会の今の指導システムの検証が必要なのかもしれない。
私が作った竹の会のシステム、私が想定もしていなかった効果に暫し沈黙です。
ようやく見えて来た竹の会式合格法
桜修館3人合格で、確信した竹の会の合格法
子どもたちをどう導くか、いつもこのテーマで悩んできた。公立中高一貫校制度がスタートして何年になるのか、2007年から2021年、公立中高一貫校の時代を駆け抜けてきた。何をすればいいのか、いつも考えてきた。過去問は微に入り細に入り調べ尽くした。こんな問題が出るのか、これが出たら困るな、問題に翻弄された頃、一つ一つ真剣に取り組んできた。去年入院して初めて休んだ。そしたら新型コロナが広がり、緊急事態が出て、塾はほとんど休みとなった時期に、初めて距離を置いて見つめ直す機会があった。
いろいろ考えた。過去問から出題者の狙いを探ることは当然としても出題者の求める生徒像から逆に問題の方向を予想したのは確かであった。九段のように、「よくできる」40点、「できる」20点、「もう少し」1点という配点は、あまりにも意図があからさまで、適性問題は、準備をしなくても100点近く取れるというのは、明らかに学校の優等生を人物像にしたもので、区内と区外に分けたために区内の劣等生による授業妨害に苦しめられて来た九段の実情を自ら語ったものだろうか。東大合格者の数を競えば、内申は「できる」でもそれなりに点を与えるはずで、むしろ知能の高い層を発掘するために問題は難しくなる。複雑な設定、場合分けして考える、論理的な思考、そういった高度な思考を重ねるしかない問題を出すことになる。算数、理科重視か、社会のレベル、国語の重視度などから、都立の出題態度は区々としており、かつ16年間蓄積された過去問はすでに膨大な量に達しており、過去問を切り取る指導者の力量がこれほど問われることはない。
量か、質か。年間の問題量が膨大になった今では、いかに過去問が質において優れているとしても、網羅的にやる過去問合格法は量で逆に思考の質を落としていることは否めない。それに量をこなせば必ず頭が荒れる。わたしがもっともおそれたことはそこであった。
単純に、この二元論的問いに正解を求めるなら、質を取ることは、容易である。しかし、現実はどろどろしたものである。質を取ると言って、質のいい問題の量をこなすことにはならないか。新型コロナがもたらした長い休みが、私にじっくりと思考する機会を与えてくれた。わたしは、暇な時はいつも何を考えるというのでもなく過去問集(銀本)のページを一枚めくっては問題に見とれていた。そんなある日私の中に閃くものがあった。
わたしは過去問から思考という木像を掘り込んでみたい衝動に駆られた。思考は作り上げる、彫り上げる、そういう思いに駆られた。
私は、質を求めて、過去問の森の中を彷徨う日を送った。森の中では、座り込んで木々と対話した。真っ直ぐ伸びた質のいい木を見つけたときの喜びは一入で少年のように胸をワクワクさせた。わたしは私の思いをレジュメ制作に託した。一つ作るのに3日は要した。いや作るというようよりは、彫るである。木像を彫る感覚である。塑像を造るという感覚である。森を彷徨う日も入れれば一体を仕上げるのに数日かかったことになる。こうしてわたしは11月から12月にかけて、「合否判定レジュメ」16問を制作した。これがわたしの求めた質であった。一回の指導で一問、それでいい。子どもたちに最高の思考の機会を与える。わたしは子どもたちが、本番直前に深い思考の経験の中を潜り抜けてきたばかりのままで、送り出したかった。本番は、そのまま私のレジュメの続きでなければならなかった。わたしは、子どもたちの脳をそこまで支配して試験に向かわせたかった。もう大量の問題をこなして思考停止の状態で本番の中に放り込むことはしないと固く決意していた。