2019.09.30
第17章 小学低学年こそ好機到来
文章を読んで、特に、算数の問題文を読んで、その意味するところを掴むために図をかくことが多い。ところが、算数が伸びない子というのは図をかかない。いやかけない。式を書け! というものだから式だけは書いてくる。しかし、その式というのが、およそ問題を理解していないという、デタラメな式である。正確には、式をでっち上げてくる。問題文をきちんと読み取れていない、そういう子が如何に多いことか。誤解に誤解を重ねる。算数ができないという子たちを見てきて、思うのは、絶望的な誤解力である。算数の問題を、事実と価値に分けて、分析してみよう。これは事実と価値という貸借対照表に類似した関係があるという仮説である。価値とは、事実に対する評価と言っていい。価値と言ったが、正確には、関係である。あるいは、定義である。例えば、割合という価値、関係に計って、事実を構成する。その構成した事実が、割合の関係、構成に当てはまるなら、私たちは、その割合の構成にしたがって答えを出すことができる。ところが、算数ができないという子たちは、事実と関係を区別できない。事実の正確な意味が読み取れない。さらには、割合などの概念の定義が曖昧、不正確、すなわち歪んだ像としてしか描かれていない。その最大の原因は、知能である。知能が未分化と言ってもいい。未分化というのは、事実を判別できない領域が多々あるということである。こういう子の頭の中を想像してみると、事実を区別できないのは、概念の区別ができていないために、事実を評価できない、のである。例えば、速さという概念は、事実の読み取りにおいて、ある道のり区間を何時間かかったか、この事実を速さという概念で評価できなければならない。概念というのは、事実を関係として捉えるためのネームである。私たちは、様々な関係を概念というネームをつけて、事実の中からそのネームを探す、ということをやっている。意識的に、そして無意識的にもやっている。速さというネームを事実の中から探している。ネームは、巧妙に隠されていることもある。事実を概念を通して評価する。台形の高さが示されていなくても、その面積を求めよ、という問題なら、高さを求めるための別の概念、つまり関係があるはずである。よく見ると台形の中に同じ高さの直角三角形がそれとなく隠されていたりする。問題を解くという精神の働きは、事実を事実として見るのではなくて、事実を概念という枠を通して見ることである。概念という色の入ったサングラスを私たちは、自ら用意しなければならない。この概念メガネが正確に調整されていないと、このサングラスを通して見た事実世界は、焦点がずれて、全体がボケて見えることになる。概念が曖昧だと事実をそもそも概念の枠で見ることができない。
知能というのは、私たち指導する者にとっては、克服し難い指導の障害である。人は生れながらにして、おそらくは、親経由の知能を受け継いでくる。だから知能の問題は、決して本人のせいではない。しかし、そのために人生で不利益を受けるのは確実に自分である。世の中というのは、誠に理不尽なところがある。かつて田舎の庭にヘチマのタネを蒔いて育てたことがある。やがて芽が出て蔓が伸び、葉が茂り、黄色い花が咲く。蜂が飛ぶのを見て、いつか花が枯れ、実が残る。その実が次第に大きくなり、次第にヘチマの形になっていく。夏も終わる頃、ヘチマがあちこちに垂れ下がる。よく見ると大きな立派なものから、未熟なままのひょろっとしたヘチマまで見事なまでに不揃いである。日当たりのいいところ、影になったところ、環境がそのまま影響する。これと同じである。人も同じである。もともとのDNA、そして生まれた環境が、規定する。DNAはもちろん変えられない。しかし、環境も現実には変えることはできない。貧乏な家に生まれれば教育もまともに受けることはできない。金持ちに生まれても親の学歴がまた子どもの教育に影響する。環境というのは、DNAと同じくらい変えられない。
ただ子どもがまともな字を書けない、というのは、いかに親が忙しいとしても、これは最低限親が子に授ける知的財産でなければならい。親は公文のようなドリル型の塾には簡単に通わせるけれど、忘れてはならないのは、それよりも字の教育である。躾けといってもいい。小学1年、このときが勝負である。徹底して、ていねいに字の形を練習させることがその後のその子の勉強のスタイルを規定することになる。恐いのは高学年になって、汚い字の癖はもはや治らないという経験値である。
真実は実は、明確である。この問題(DNAの問題)を曖昧にしたところに、世の中の塾というものが漠然と存在している。親も子も自分の子が、自分のDNAからすればどれほどのものかおよそ推測はできるはずである。しかし、親というのは、そういう論理は、取らないことになっている。自分の子はやり方さえ良ければできる、できるようになるはずだ、と半ば信仰に近い信念を持っている。この際、自分が子どもの頃、どんなにできなかったか、など一切影響はないこととして疑わない。いやかつて親が高学歴であるのに我が子ができないのはどうしたものか、と悩みを打ち明けてきた親もいた。DNA通りではない、と悩んでいる、のである。しかし、その子ができないという事実は厳然たる事実であり、私たちは、そういう前提でかかるしかない。
塾は欺瞞に満ちている。できないとわかっていても「なんとかなる」と言わなければ商売にならないからである。塾はすり替える。DNAの問題だとわかっていても、「必死に頑張れば」と頑張りが足りないことに話しをすり替える。「部活が邪魔している」と話しをすり替える。「夏、頑張らなかったからだ」と話しをすり替える。どんなに頑張ってもだめな子はいる。しかし、塾は、そういうことは決して言わない。可能性、たとえ1%の可能性でも、「大丈夫だ」と言う。わたしは、「ダメだ」と正直に言って、恨まれることが多い。「見捨てられた」と恨まれる。正直に言って、これ以上無駄なお金はもらえません、というより、まだ可能性があると言って、引き留めて、金を払わせる方が、喜ばれる。親は見放されたと思うより、見捨てられなかったということのほうが嬉しいのだ。お金を無駄とは思っていない、のだ。
親の心理というものは、合理的ではない。心情的な不合理性が、支配する世界である。
わたしは、そうした親の心情が、理解できないのではない。ただ塾というものが、商売を優先させて、親の弱みに付け込んで、子どもを商売のタネにするのが嫌なだけである。
ただ最近のわたしはできないという子どもを訓練してみて様子を見てみる、そこまではする意味があるのかもしれない、と思うようになった。先の親の心情を思うとそこまではやってあげて、それでどうにかなるか、見極めるところまでは、やるべきなのか、と思うようになった。以前は、その前に、切り捨てるということをやった。これがかなりの恨みを買った。
実は、最近のわたしの訓練技術は、完成域にあり、このところ低学年、境界児童に、わたしはわたしの指導技術の粋を尽くして取り組んでみる、根気よくつきあう、ということをやっている。
わかったこと
低学年ほど効果が高い。低学年というのは、未分化な段階であり、ここで施す指導がもたらす脳の発達は、指導のたびに目を開くものがある。その効果は、勉強にスタンスが向いている子ほど高い。勉強よりも遊びに気を奪われる子の効果は低いこともわかっている。してみれば低学年指導の前提には、家庭の勉強を価値とする環境が大きくこれからの子の勉強生活のありようを決めることになる。
低学年指導と境界児童の差
最近の竹の会が、小学低学年指導に取り組んで、その指導を通して研究成果を積み重ねていることは、いわゆる境界児童の指導において一つの希望をもたらしていることは実感している。
境界児童の概念 竹の会の規定
通常、境界児童とは、発達障害などの事情により理解が困難な児童を指すと思われる。知能検査では、80が一つの目安になるかと思われる。わたしの経験では、日常生活の思考、判断は遜色なく普通以上なのだけれど、国語、数学の学科において、理解困難という状況を呈する、一群の子たちが存在するということである。こういう子たちの多くは、小5前後以降にわたしの元にやってくることが多く、それまでに何をやっていたかは、区々である。大手その他の中小塾に行っていたとか、公文、花丸などのドリル塾に行っていたとか、あるいは無塾という子たちも多くいる。こうした子たちが、小学高学年になってやってきて、成功する蓋然性は限りなく低い。さらにこういう子たちが、将来中学に入って伸びていくかというとその可能性も限りなく低い。これは竹の会35年の経験値からの結論である。
この子たちが、小学低学年から、竹の会の指導を受けていたら、どうなったか、という問題については今のところ知見はない。ただそういう子たちの多くが、もっと早くに竹の会に来ていればと思ってきたことは確かである。
学校の優等生が、小学高学年から来て成功するか。
そういう子の中には稀に見る知能優秀な子たちもいたわけであり、そういう子が、小5なり、小6なりに来て成功した例は数例ある。
ただもっとも多いパターンは、「よくできる」が、7割、8割ある子たちが、その有能さから、習い事、稽古事などにも才能を発揮し、そのために勉強に専念することができずに、失敗するパターンである。こういう子たちが、またよく大手塾に、小4前後から通っているというのも不思議な一致である。ただ優等生ゆえに無塾という子も少なからずいた。中には、大手の無料体験講習専門という猛者もいた。こういう子たちは、もともとの知能は悪くはないので、中学にはいってもそれなりにできる。ただ持ち前の多感な才能が、またまた部活に花咲かせて、入試を棒に振るということは往々にしてある。
こういう子たちが、竹の会に来ても、たいていは、高学年からであり、しかも習い事、稽古事は止めることはないから、受検に失敗するのがほとんどであった。こういう子たちは、自分たちの姿勢を反省するよりも、そうした姿勢を前提に塾を批判することになることがほとんどだから、失敗イコール竹の会はダメだという思考を取るようである。
こういう子たちが、小学低学年から竹の会に来たとして、成功するのか。
習い事、稽古事に熱心な、こういう子らが、成功する蓋然性は低い。ただ竹の会の指導が、もともと知能の比較的高い、こういう子らに与える影響は大きく、竹の会で基本を鍛えられた子らが中学で伸びる可能性はかなりな高いと思われる。
さて、以上の経験値に基づく小学低学年指導の効果についての分析において、成功する蓋然性が高いこと、そしてその成功率の高さは、子どもの持って生まれた知能、それが潜在的なものとしてあるのが普通のため、指導は、その潜在的可能性を引き出すことに力が注がれることになる、子どもの勉強姿勢、スタンスが大きく影響すること、そして習い事、稽古事が、子どもを勉強という人生において成功に導くには、結局マイナスになること、特に、子どもにスポーツをあたかもライフワークとして生活の中に取り込むことは、それとさらに勉強での成功を盛ることは、99%無理であること、これも経験値であり、例外というものは少なくともわたしはこの目で見たことはない。
竹の会という塾は、塾のありようそのものが、ひとつ主張であり、東京のみなさんには、既存の塾の概念イメージでもって竹の会を測って、竹の会を批判する人が多く、つまり理解できない方が多いと思います。かつては悉く大手と比較して、いわゆる塾ツアーなるものをやる親たちがよく来ましたし、入会試験を物見遊山で受けに来る親もいる始末でした。
昔から、大手塾、個別指導塾、個人指導塾、地元塾などあちこちの塾を転々として、結局竹の会に辿り着くという親子が多かった。昔は、大手に行くのが、普通で、竹の会のような小塾に来るのは、こういう落ちこぼれが多かった。
もちろん昔から、竹の会の主張を熱烈に支持する親御さんはいて、そういう親御さんというのは、竹の会を疑うということを知らないし、とにかく信頼が厚かった。こういう方たちが竹の会の実績を作りあげていってくださったのだと思う。逸材は、親の信頼がもたらした。そういう親御さんというのは、高学歴の方もいて、見識も高く、塾というものをよく知っておられた。もちろん大手を経験して、大手の底を見たという方もいた。中には、竹の会しかない、という信念を持たれた方もよくいた。こういう方たちは、信念で竹の会を選ばれただけあって、ブレがなかった。習い事、稽古事などに溺れる人もなかった。こういう人たちは、塾を休むということもほとんどない。親の信念、ブレのない教育態度というものが、子どもにもよく徹底していて、子どもにも勉強するという意思にブレのないのが、印象深い。子は親を見て育つ。親の場当たり的な判断が、子を場当たり的な子にしてしまう。勉強にブレのない親は、子に勉強というもののありかたを身をもって教育しているのである。習い事、稽古事、実家帰省という名の余暇、家族旅行を繰り返す家庭で、子どもがどういう勉強観を持つに至るか、考えて見れば自明である。親の勉強に対する思い、姿勢そのものが、子に勉強という意味教育をしているのだということを知らなければならない。
竹の会レジュメの例
竹の会合格35年史 竹の会昭和60年(1985年)創設
平成31年
中学受験
都立桜修館中等教育学校(男子)※併願合格 巣鴨中学 攻玉社中学 都立桜修館中等教育学校(女子)千代田区立九段中等教育学校(女子)千代田区立九段中等教育学校(女子)
高校受験
都立青山高等学校(女子)
平成30年
中学受験 都立桜修館中等教育学校 都立富士高等学校附属富士中学校 都立富士高等学校附属富士中学校 ※併願私立 東京農業大学第一高等学校中等部
平成28年
中学受検 都立小石川中等教育学校 都立白鷗高等学校附属中学校 都立富士高等学校附属富士中学校
高校受験
都立戸山高等学校 都立文京高等学校
平成27年
中学受検
都立桜修館中等教育学校 都立富士高等学校附属富士中学校
高校受験
都立戸山高等学校
平成26年
高校受験
都立駒場高等学校
平成25年
中学受検
都立小石川中等教育学校 都立桜修館中等教育学校 都立白鷗高等学校附属中学校
高校受験 ※1名中1名合格
都立北園高等学校
平成24年
中学受検
都立富士高等学校附属富士中学校
平成23年
中学受検
都立小石川中等教育学校 都立桜修館中等教育学校
高校受験
都立小山台高等学校 都立文京高等学校 都立産業技術高等専門学校
平成22年
中学受検
都立桜修館中等教育学校 都立両国高等学校附属中学校 東大附属中等教育学校
高校受験
都立富士高等高校
平成21年
大学受験
慶應義塾大学(商学部)千葉大学(法経学部)
平成20年
中学受検
都立桜修館中等教育学校
高校受験
都立西高等学校 豊島岡女子学園高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)立教新座高等学校
平成19年
中学受検
千代田区立九段中等教育学校 東大附属中等教育学校 東大附属中等教育学校高校受験
都立狛江高等学校
平成18年
中学受検
東大附属中等教育学校
高校受験
都立富士高等学校 都立狛江高等学校
平成17年
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立大附属高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)
平成16年
中学受験
東大附属中等教育学校 成城学園中学校
高校受験
都立富士高等学校 都立富士高等学校 國學院高等学校
平成15年
中学受験
国学院久我山中学校 吉祥女子中学校
高校受験
都立新宿高等学校 都立鷺宮高等学校
大学受験
中央大学
平成14年
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立駒場高等学校
大学受験
慶應義塾大学(総合政策学部)上智大学(経済)
平成13年
高校受験
都立西高等学校 都立国際高等学校 都立新宿高等学校
平成12年
中学受験
東大附属中等教育学校 日本大学第二中学校 実践女子学園中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 国学院高等学校 国学院高等学校 東京農大第一高等学校
平成11年
中学受験
立教池袋中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立駒場高等学校 青山学院高等部
平成10年
高校受験
早稲田実業学校高等部(普通科)早稲田実業学校高等部(商業科)立教新座高等学校 日本大学第二高等学校 都立駒場高等学校 都立三田高等学校
平成9年
中学受験
成城学園中学校 大妻中野中学校 大妻中野中学校 恵泉女学園中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 都立駒場高等学校 都立駒場高等学校 成城高等学校 成城学園高等部
平成8年
中学受験
昭和女子大附属昭和中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 国学院久我山高等学 東工大附属高等学校 日大櫻丘高等学校 玉川学園高等部
大学受験
東京理科大学(理工)
平成7年
中学受験
成城学園中学校
高校受験
東邦大附属東邦高等学校
大学受験
中央大学(法学部)
平成6年
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 国学院久我山高等学校 帝京大学高等学校
大学受験
東洋英和女学院大学
平成5年
高校受験
都立大附属高等学校
平成4年
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立駒場高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)成城高等学校 共立女子第二高等学校 東京農大第一高等学校
平成3年
中学受験
東洋英和女学院中学部
高校受験
都立戸山高等学校 都立新宿高等学校 都立駒場高等学校 青山学院高等部
平成2年
中学受験
獨協中学校
高校受験
都立新宿高等学校 都立大附属高等学校 東京農大第一高等学校
平成1年
高校受験
都立国際高等学校
昭和63年
高校受験
都立駒場高等学校 都立芸術高等学校 都立大附属高等学校 富士見高等学校 国学院久我山高等学校
昭和62年
高校受験
都立駒場高等学校 都立大附属高等学校 都立大附属高等学校 都立目黒高等学校 青山学院高等部 市川高等学校 国学院久我山高等学校
竹の会昭和60年10月開設