2019.08.28
第4章 過去問合格法 竹の会の奇跡の合格術
過去の竹の会の合格は、過去問合格法のもたらした成果でした。昭和60年10月、わたしは渋谷の元代々木の小さなマンションの一室に塾を開きました。それが、竹の会でした。わたしの手書きの募集をガリ版印刷したハガキを見て、最初は、中2の女子が、3人来ました。一か月もしないうちに、塾は、代々木中の中2で埋まってしまいました。当時、高校受験の大手と言えば、河合塾、代ゼミ、駿台の時代でした。わたしは、 代ゼミと駿台から出ていた、数学の問題集の中から、問題をコピーして、使いた問題だけを、ハサミで切り取り、コピーして、使いました。この頃から、生徒に合わせて、使える問題、使えない問題というのを、本能的に、使い分けていたのです。中2の子たちが、中3となり、いよいよ受験の年を迎えるに及んで、わたしは、ハタと考えました。どう戦うか、躊躇なく、わたしは、学参と声の教育社から出ていた過去問集を買い込み始めました。過去問は、コピー用にと、プリント形式のものも買いました。あっという間に、数十冊の過去問集が集まったのです。わたしは、偏差値60の高校から、次第に、レベルを上げていき、偏差値70前後の高校へと、解き進めて行きました。子どものレベルによっては、偏差値55まで下げることもありました。代々木中、上原中の、劣等生が、集まったときには、偏差値40台の過去問も使いました。過去問は、どの過去問も、5年から10年分ありましたから、毎年買えば、10年も経てば20年分はたまります。平成十年頃の教室は、こうした過去問集で埋まっていました。わたしのやり方は、偏差値55あたりから始めて、解き尽くしていく、それだけでした。例えば、偏差値60なら、東京農大一高の過去問、英語と数学、国語全てを最低でも十年分解かせる。自分で、考えさせる。わたしは、生徒の答案を採点する。そしてできなかった問題について、わたしの解いた解答を渡す。解答は、問題用紙にわたしが書き込んだものもあるし、わら半紙に書いたものもあった。一人だと原本を渡したが、何人かいると、それをコピーして渡した。わたしが好んでよく使う学校というのはありました。高校受験の導入にちょうどよかったのは、問題数20問で、中学3年間の単元を網羅的に、出題する学校でした。基本チェックに最適でした。大きな問題5問だけという高校もありました。むしろその方が主流でした。そうなると、出題は限られます。必ず、出るのは、二次関数、三平方の定理、円です。竹の会のレジュメが、この三分野に集中しているのは、そういう背景があるからです。高校受験は、60%とれは合格というのが定説です。もちろん中大附属だと7割、早稲田実業の推薦だと8割といった特別なものはあります。あるいは、久我山のように、5問中1問は必ず確率の問題という、各学校による特色ももちろんあります。わたしは、偏差値70の問題を解き尽くしてきた人間です。
竹の会の合格史を見てみると、たまに中学受験の合格があります。実は、わたしは、中学受験でも、同様な過去問合格法をとったのです。ただ高校入試とは、確実に異なることがありました。それは、小学生は、最初は、真っ白だということです。小数の計算、分数の計算から、手ほどきしなければなりません。中学のように、中3になったら、過去問というわけにはいかないのです。過去問解く以前の段階で、もたもたして、過去問合格法に、入れないということもあるわけです。わたしは、ここでも、難関中の過去問を、網羅的に解きつくして行きました。ただその頃のわたしは、算数は素人だったと思います。当時の算数の問題は、そのほとんどが、方程式で解ける体裁でしたから、わたしは、四谷大塚のテキストが、何々算とかいった解き方をしているのが、どうも迂路に思えたものです。とにかくわたしは方程式を使ったし、難問と言われるものは、原則図で解きました。竹の会が、今のように算数に開眼し、数学よりも、算数で解く、ということに合理性を見出したのは、平成18年に九段志望の子どもを指導した頃からでした。あの時、わたしは、小6の4月でしたか、計算の手ほどき、割合の手ほどきというものに真剣に取り組んだのです。幸いだったのは、その子が、比較的知能が高かったことでした。わたしは、特に、苦労することもなく、計算と割合をマスターした、その子に、過去問合格法を使うことができたのです。その子が、11倍という難関を突破した年には、23区から、公立小の6年生が、公立中高一貫校をめざして、竹の会元代々木教室に集まりました。特に、九段志望が多かったと記憶しています。ところが、わたしは、壁に突き当たるのです。集まった小6のほとんどが、分数の通分も理解していないこと、割合に入ると、もう「先生の言っていることが、さっばりわからない」という子たちでした。当時は、まだレジュメというものはなく、わたしは塾専用教材の中から、割合に特化したテキストをなんとか見つけて、使っていましたが、わたしには、不満だらけの、ワンパターンのテキストでした。例によって過去問合格法を取ろうにも、試しにやった過去問は、ほとんど解けない、白紙同然でした。こういう子たちが、公立中高一貫校にはわっと集まったのです。
この時の成果は、散々で、桜修館に一名だけ受かったのが幸いでした。もっとも都立を受けたのは、3名ほどで、九段は2名受けただけでしたか。平成20は、生徒はほとんど集まりませんでした。それでわたしは、小学生にどうしたら割合を理解させられるのか、そのことが頭から離れず、それは寝ても覚めても、考え、考えては、レジュメを作り、もう試作品だけで、膨大な量になっていました。20年に集まらなかったので、21年の受検者ゼロです。わたしは、暇でしたから、もうレジュメの創作に没頭していました。生徒がいないので、確か、この頃、LECという資格試験の予備校で、講座用の問題を創るアルバイトをしたり、家庭教師をしたりと食いつないでいた頃でした。LECのアルバイトに採用されたのは、LECのある国家試験の模試を受けたら、全国順位が上位になり、合格判定をもらったことからでした。もしかしたら、わたしは斜陽の塾を諦めて、法曹の世界に入ったかもしれなかったのです。ところが、平成21になって、後に、小石川や両国に受かることになる俊才たちがきてくれた。それとわたしの小学生指導の研究が進み、わたしは、またまた忙しくなった。それで頭を下げてLECを辞めて、家庭教師も断った。竹の会に専念するとになった。平成21年のわたしの研究成果は、22年の両国、桜修館合格となって結実した。3名中2名の合格であった。桜修館に合格したのは、ニューヨークのテロで父君を亡くした杉山太一君である。彼が桜修館に合格して6年後京都大学に合格したときは、朝日にカラーの写真入りで特集された。わたしは、22年も夢中で、レジュメの開発に取り組んでいた。ワード版「適性虎の巻」を完成させたのがこの年だった。22年年は、小4の8月に入会した子が、小6となりましたが、彼は小5までに、過去問2年分を終わらせ、その解き直しも7回終わらせていました。小6になって、さらに1年分に取り組み、都立の過去問を網羅的に潰していきました。弱点だった、読解については、私立難関中の国語の問題を潰していきました。「過去問虎の巻」をやったのはもちろんです。彼は早稲田進学会の模試の上位の常連となり、最後の模試では、480人中の5位になりました。満を持しての合格でした。早くから小石川にしぼって研鑽を積んできたのです。同じ年、彼とともに勉強した男子が桜修館に合格しています。この年も3名中2名の合格であった。
23年の指導は、様々なレジュメが交錯し、子どもたちには申し訳ないないことをしてしまった。ただこの年の受検指導において、あのミクロマクロ法が日の目を見ることになった。24年の受検も、過去問合格法が軸となってしまった。結果は、惨敗で、1名が富士に受かっただけに終わった。生徒が来ないかと思ったら、また数人集まった。24年は、入会試験元年であり、竹の会のいわゆるレジュメ元年であった。入会試験という名目でわたしは、これまでのワードをやめて、すでに高校入試では使い慣れていたある数式ソフトを使って、小学生のためのレジュメ作りに没頭した。この年に生まれたのが、「入会試験第1類」、「合格答案への道」、「算数をクリアーにする」だった。このレジュメは、小石川、白鷗、桜修館の合格を出した。5名中3名の合格である。
過去問合格法について、話すつもりが、竹の会のレジュメ誕生秘話になってしまいました。
過去問合格法が、レジュメに駆逐されたかに見えた平成25年、しかし、26年の指導で、わたしは混乱した。完全に受検対策を混乱させてしまった。ワード版レジュメを捨て切れずに使ったことが、裏目に出た。こんなことなら過去問合格法を使った方がましだったかもしれない。過去問合格法が、復活したのは、29年の指導からだった。28年は生徒がさっばり集まらず、受検生がいなかった。およそ合格しそうにないほどできない子たちを、つまりレジュメで合格ハンコがほとんど取れない子たちをなんとか受からせたい。この思いが、わたしに再び過去問合格法を使うことに向かわせた。そうだったのだ。過去問合格法が竹の会で復活したのは、レジュメで合格ハンコが取れない子たちが、増えたことにあった。こういう子たちは、レジュメについてこれない子たちであり、わたしは、そういう子たちをなんとか救いたい、そう考え、悩んだ。そして、竹の会には、ほかのどこも真似のできない過去問合格法の指導技術があるではないか、これをそのまま眠らせておくのは、もったいない話しである、と思いついたのです。
過去問合格法は、竹の会で、数々の奇跡的合格を生み出してきた、まさに奇跡の合格法であったのです。わたしは、過去問のすべてに精通し、どこの学校の問題は、子どもの何を鍛えるのに、役に立つ、というようなことを知り尽くしていました。だから子どもの状態を見て、即座に使える過去問を取り出し、テコ入れできたのです。過去問合格法のいいところは、子どもの弱点が即座にわかり、そのための手を打てることです。指導というのは、常に子どもの全人格的な学力を把握し、全体を見ながら修正をしていくところにあります。過去問合格法の最大の長所は、常に本番を意識した、試験問題と対しているため、本番さながらの試験モードにあり続けることでしょう。 時間内にどこまで解けるか、時間配分、難問、つまり捨問の判断、そういう戦略も、養われる。もっとも優れているのは、常に、試験全体を意識しながら取り組む訓練ができることである。制限時間との兼ね合いで、問題を見る目、勘を養うことができるのです。過去問は、当局の、つまり出題者側の、明示の出題事項の提示です。私たちは、過去問を超えたことをやる必要はないし、また過去問にないことをやる必要もない。ただその判断は微妙である。例えば、算数で時として出される難問をどう位置づけるか、である。これを例外として、捨てるのか、である。捨てるから、その準備もしなくていいのか、である。これは算数という科目の本質に関わる。算数の難問で能力を磨く、深める、鍛える、という考え方からは、これを過去問を超えるとして、準備不要とすることはできない。これはやる必要はない、というのは、だから単純ではない。指導の実際では、わたしは、算数については、この子は能力があると判断したら、徹底して鍛えることにしている。開成中とか、灘中などの超難問でも指導では使い倒す。そのことが、本年桜修館合格の男子が、巣鴨特別選抜20名枠や攻玉社特別枠20名に合格できた、理由であったのだと思う。
過去問は、出題者の顔である、主張である、言動である。こういうものは出さない、こういうことは聞いておきたい、こういう判断はできるか、社会の関心度、成熟度はどの程度か。過去問には、様々な出題者のメッセージが、込められている。子どもは、「問いに答える」という形で、出題者の意図を汲み取る。私たち指導する側は、問いの後ろに隠された出題者の意図、真意を読み取る。そういうことである。わたしには、過去問は宝の宝庫であり、毎年みくに出版から出される過去問全国版(通称銀本)は、みくにから送られてくると、全問を読み、解き尽くすのはもちろん、わたしの琴線に触れた問題は、レジュメとして、詳しい解説とともに、子どもたちに供する。わたしは過去問全国版は2冊、購入するが、ひとつは、資料としての保存用である。また、算数の銀本もわたしには欠かせない宝である。ご存知のように、銀本には、解答はあるが、略解で、詳しい解説はない。子どもたちが、使うには、不親切であるが、わたしには、解説など要らないから、重宝なのである。他人の書いた解説を読むことほど苦痛なことはない。ただし、当局発表の解答は、ミスを防ぐために必要である。みくにの解答とわたしの解答が合わないということもある。その時は、何回も解き直して確認する。それでみくにの解答の誤りを確信したことはある。解説は、わかりやすく、図を駆使して、簡にして要を得た、一覧性をポリシーとした。一目でわかる、を最重要とした。理解を容易にするための工夫を求めた。そのために飽くなき追求をした。カラーも彩色し、わかりやすさの助けとした。
過去問と付き合い始めてもう35年が経とうとしている。わたしはわたし仕様の過去問合格法を作り、受験という実践に、修正、工夫を積み重ねながら、わたしなりの過去問合格法というとのを完成させてきた。竹の会は、レジュメ指導を完成させた。しかし、レジュメ指導で、合格を取れない子たちを見捨てることなく、対処するには、再び過去問合格法によるほかはない。わたしは竹の会の実績を作り上げてきた、過去問合格法について、考え込んだ。それは、平成30年に、レジュメの成績が芳しくなかった、2人の男子が、この過去問合格法で、なんと合格してしまったことを、である。あの時、わたしは、過去問合格法の隠された威力というものを思い知らされた。これは、レジュメ指導では、ありえないことだった。無心に過去問を解く、解き直す、何回も解き直す、この営みの中に、どのようなパワーが隠されているというのか、わたしにはとても解明できそうにない。神秘の力ように思える。わたしは、ただ祈るだけであった。竹の会の神さまに手を合わせて心から平伏す。普通なら合格するはずがない、そう思えた子たちの、番号がある! これはどうしたことか。合格するはずの子たちの番号は時として「ない」。だからわたしも慎重になる。どこまでもその証しを求め続ける。これでもかと、レジュメで証しを取る! 何重にも証しを取って、合格できる、と確信するまで繰り返す。証しの取れない子たちには神頼みの過去問合格法に託す。レジュメで証しの取れる子たちには、過去問合格法は実戦そのものである。飽くなき実戦経験である。
竹の会に過去問合格法あり!
竹の会合格35年史 竹の会昭和60年(1985年)創設
平成31年
中学受験
都立桜修館中等教育学校(男子)※併願合格 巣鴨中学 攻玉社中学 都立桜修館中等教育学校(女子)千代田区立九段中等教育学校(女子)千代田区立九段中等教育学校(女子)
高校受験
都立青山高等学校(女子)
平成30年
中学受験 都立桜修館中等教育学校 都立富士高等学校附属富士中学校 都立富士高等学校附属富士中学校 ※併願私立 東京農業大学第一高等学校中等部
平成28年
中学受検 都立小石川中等教育学校 都立白鷗高等学校附属中学校 都立富士高等学校附属富士中学校
高校受験
都立戸山高等学校 都立文京高等学校
平成27年
中学受検
都立桜修館中等教育学校 都立富士高等学校附属富士中学校
高校受験
都立戸山高等学校
平成26年
高校受験
都立駒場高等学校
平成25年
中学受検
都立小石川中等教育学校 都立桜修館中等教育学校 都立白鷗高等学校附属中学校
高校受験 ※1名中1名合格
都立北園高等学校
平成24年
中学受検
都立富士高等学校附属富士中学校
平成23年
中学受検
都立小石川中等教育学校 都立桜修館中等教育学校
高校受験
都立小山台高等学校 都立文京高等学校 都立産業技術高等専門学校
平成22年
中学受検
都立桜修館中等教育学校 都立両国高等学校附属中学校 東大附属中等教育学校
高校受験
都立富士高等高校
平成21年
大学受験
慶應義塾大学(商学部)千葉大学(法経学部)
平成20年
中学受検
都立桜修館中等教育学校
高校受験
都立西高等学校 豊島岡女子学園高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)立教新座高等学校
平成19年
中学受検
千代田区立九段中等教育学校 東大附属中等教育学校 東大附属中等教育学校
高校受験
都立狛江高等学校
平成18年
中学受検
東大附属中等教育学校
高校受験
都立富士高等学校 都立狛江高等学校
平成17年
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立大附属高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)
平成16年
中学受験
東大附属中等教育学校 成城学園中学校
高校受験
都立富士高等学校 都立富士高等学校 國學院高等学校
平成15年
中学受験
国学院久我山中学校 吉祥女子中学校
高校受験
都立新宿高等学校 都立鷺宮高等学校
大学受験
中央大学
平成14年
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立駒場高等学校
大学受験
慶應義塾大学(総合政策学部)上智大学(経済)
平成13年
高校受験
都立西高等学校 都立国際高等学校 都立新宿高等学校
平成12年
中学受験
東大附属中等教育学校 日本大学第二中学校 実践女子学園中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 国学院高等学校 国学院高等学校 東京農大第一高等学校
平成11年
中学受験
立教池袋中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立駒場高等学校 青山学院高等部
平成10年
高校受験
早稲田実業学校高等部(普通科)早稲田実業学校高等部(商業科)立教新座高等学校 日本大学第二高等学校 都立駒場高等学校 都立三田高等学校
平成9年
中学受験
成城学園中学校 大妻中野中学校 大妻中野中学校 恵泉女学園中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 都立駒場高等学校 都立駒場高等学校 成城高等学校 成城学園高等部
平成8年
中学受験
昭和女子大附属昭和中学校
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立新宿高等学校 都立新宿高等学校 国学院久我山高等学 東工大附属高等学校 日大櫻丘高等学校 玉川学園高等部
大学受験
東京理科大学(理工)
平成7年
中学受験
成城学園中学校
高校受験
東邦大附属東邦高等学校
大学受験
中央大学(法学部)
平成6年
都立青山高等学校 都立新宿高等学校 国学院久我山高等学校 帝京大学高等学校
大学受験
東洋英和女学院大学
平成5年
高校受験
都立大附属高等学校
平成4年
高校受験
都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立青山高等学校 都立駒場高等学校 桐蔭学園高等学校(理数科)成城高等学校 共立女子第二高等学校 東京農大第一高等学校
平成3年
中学受験
東洋英和女学院中学部
高校受験
都立戸山高等学校 都立新宿高等学校 都立駒場高等学校 青山学院高等部
平成2年
中学受験
獨協中学校
高校受験
都立新宿高等学校 都立大附属高等学校 東京農大第一高等学校
平成1年
高校受験
都立国際高等学校
昭和63年
高校受験
都立駒場高等学校 都立芸術高等学校 都立大附属高等学校 富士見高等学校 国学院久我山高等学校
昭和62年
高校受験
都立駒場高等学校 都立大附属高等学校 都立大附属高等学校 都立目黒高等学校 青山学院高等部 市川高等学校 国学院久我山高等学校