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死にかけた脳を蘇らせる教材を作る

2020.09.07

 

◎死にかけた脳を蘇らせる教材を作る

 意味を悟らない脳の指導は難しい、いやできない。意味さえ理解できない子の指導をどうするか。竹の会には正規の入会試験に合格しなかった子もいる。さらに正規に合格した子の中からも黄色信号ないし赤信号の子が出ている。竹の会が入会試験を実施するのは、学校の優等生を指導するためである。
 竹の会の算数指導で、その子の知能を測るバロメーターの一つとして、「わからない」という問題について、わたしの解いた解答の書き込みを読ませることをよくする。この書き込みを読んで「わかった」という子と「わからない」という子がいる。
 「わからない」という子が、今後伸びるか、については、もちろん消極である。読んで「わかる」子はまだ救われる。
 子どもの伸び代を判断するバロメーターには、ほかにもいろいろある。
 例えば、かつては逆算をマスターするのにかかる時間が目安となった。優秀な子ほど逆算の論理を理解するのが速い。かつては逆算をマスターするのに、3〜6か月かかる子がそれなりにいた。そういう子たちが結局挫折して退塾していくケースも珍しくなかった。今は逆算を理解させる技術が発達し、ほとんどの子が短期間にマスターするようになったから、バロメーターとしてはあまり意識していない。
 このところうんざりするのは、字の汚い子の指導である。ノートを見ていて頭が痛くなる。ここまで字が読み取れないと、もはや病気であると思う。
 「美しい字」は、親の最高の贈り物である。小1前後にしっかりとしたていねいな字を書く癖をつけてあげなければならない。よくこの時期に公文などに任せて勉強の進度、ノルマばかりに気を奪われていると、たちまち悪字を覚えてしまう。字の形を知らない、大きさの調節ができない、全体に気を配りながら揃えて書くということを知らない。一字一字が暴れる、殴り書きとはこのことだ。速く書くことばかりに気を奪われて、字をじっくりと眺められない。恐ろしい話しである。ノートもまともに取れない子にしてそれでいいのか。
 字は小1の前後が勝負だ。このときに、親が付きっきりで見てやる。丁寧にゆっくりとなぞるように書くように指導する。字というのは、このタイミングを逃すともうまともに書けるようになる可能性はほとんどない。これは経験値で申し上げている。字がまともに書けないというのは、人生において致命的とさえいえる。ノートをまともに取れない、ノートにまとめられない、これが何を意味するか、お分かりであろうか。実は考えるときも、書いて考える。自分の思想を綴るときは字で考える。中学、高校、大学と、字を書くということが、まともな人間としてあるための基本中の基本である。社会に出ても、字が重要な社会生活の基本アイテムとなる。そもそもパソコンの普及が、字を軽視する風潮を助長したのかもしれない。親たちは、字を書くということを明らかに軽視していたと思われる。それよりも勉強ができることの方が大事だと奇妙な比較をやって疑わない。親がやるべき義務を果たさなかった。簡単なことであった。それよりも習い事、稽古事を優先させた。英語は習わせても字は放置した。そういうことである。
 そもそもわたしは大手のテキストというものに疑問を持っていた。といってもわたしが実際に目にした大手テキストはそれほど多くはない。四谷大塚の予習シリーズは一度使ったこともある。一度である。しかもある一人の受験生のために試してみた。その子は頭は悪くはなかった。しかし、このテキストシリーズはその子の算数を伸ばすことはなかった。河合塾のグリーンコースに通う生徒を指導したとき、河合塾で使っていたテキストを使ったことがある。中2であったが、過去問を網羅したテキストは圧巻であった。この時は、大手のテキストをすごいと思った。しかし、結局、竹の会の過去問を使った指導で、早稲田実業高校に合格したとき、渋谷区から河合塾に通っていた秀才たちは軒並み落ちた。あのテキストを使って落ちたのか、とわたしは不思議な感動に包まれた。かつてサピックスに通ったという児童の親がサピックスのテキストをどっさりと送ってきた。参考にしてほしいという。この時、竹の会でも普通に手に入る新小学問題集というのがあるが、その発行会社から出ていたテキストシリーズと内容が全く同一であったのには驚かされた。
 大手はとにかく秀才、天才を集めるところから、いやまた集まるから、それなりの成果が出るのは当たり前なのであるが、テキストも秀才、天才を念頭に作る、そうしなければ合格できないテキストになるから当然である。
 かつてサピックスが中3に声の教育社の過去問を大量にコピーして渡したのを見てびっくりしたことがある。自分でやれ、というのだ。これを見ても大手が、もともと秀才、天才を相手にしていたのだと言うことがわかる。もともと自分でやれる子たちを集めた。天才だから当然のように合格したのを、大手のおかげで合格した、と持ち上げるのも忘れない利発な子たちである。
 この大手の体裁を普通の子たちに当てはめてみよう。断っておくが、ここで言う普通の子たちとは、最低「学校でできる」とされている子たちである。いわゆる学校の優等生は、内申から見たもので、三段階の「よくできる」が8割以上ある子たちを言う。もちろんわたしの定義である。わたしの経験値からは、将来公立中でトップクラスになるほどの子でも、日能研では中クラスの真ん中だった。かなり知能の高い子でもこれである。日能研でこのクラスの子は潰される。私立で成功するというのは、性格もあろうが、それより上の知能の持ち主ということになる。ところが、その子は竹の会の三年の指導で、今度は河合塾や代ゼミに通う秀才たちが軒並み落ちた早稲田実業に渋谷区でただ一人の合格者となったのである。彼は代ゼミの全国模試で上位に名前を載せてもいた。
 話しは脱線したが、彼が使った竹の会オリジナルテキストは今はない。あの当時わたしは大手のテキストに幻想を抱いていた。わたしの、基本から説いた自前のテキストで、早稲田実業に合格したのを見て、「竹の会も結構やるじゃないか」と呟いたのを覚えている。大手のテキストに比べたら竹の会のテキストは徹底して「引き付け」に徹していた。基本の基本の理解にこだわった。そういうテキストを使って私は難しい問題ばかり解かされている大手の中学生を牛蒡抜きにした。
 時代は変わり平成10年以降いよいよインターネットが普及し、パソコンも進化し始め、それに伴って様々な、便利なソフトが開発されていった。
 それまでどうだったかって? 世はワープロ専用機の時代でわたしは十台ほど潰した。あの「心の指導」は、日立のワープロだったし、「英語指導案」は、最初東芝ルポ、のちにNECのシリーズに変わり、それからずっとNECを買い替えながら、使ったものだ。最初に買ったパソコンはMacのクラシック、結局使いこなせずに、NECのデスクトップへ。さらにDELLを何台か使い、今は富士通を使っている。わたしが、まだパソコン製作に慣れていない頃、新宿の量販店で、出会ったパソコンソフトがわたしの人生を変えた。これまでできなかった、大手のようなテキスト、数式、数学関数のグラフ、様々な図、そういうものを全て実現してくれるソフトに出会ったのだ。しかし、ソフトは買ったものの、一年は放置に等しい状態だった。たまたま作った教材でわたしは覚醒した。わたしは教材を制作する過程で、そのソフトに熟練していった。様々なことができるようになった。わたしは、平成17年に中1になる女子の指導に併せて、そのソフトで、これまでの竹の会のオリジナルテキストのレジュメ化に取り組んだ。完成するまでに2年を要した。この教材の制作を通して、わたしの技術は飛躍的に高まった。平成19年に完成した、わたしのレジュメのみで、中3になった彼女が、平成20年、豊島岡女子、都立西に合格を果たした。同年中1から見てきた男子が同じレジュメで、立教新座、桐蔭理数に合格、桐蔭に進んだ。その生徒は、4年後東大経済に合格したと自身で報告に来た。西に進んだ女子はお茶の水女子大に進んだという報告がお母さんからあった。
 わたしは、この頃から夢中でレジュメを執筆、製作するようになった。どこに行くにも鞄の中にはたいてい灘中や開成中などの過去問集が忍び込ませてあった。暇さえあれば難問を解き、解けたら、解説を作った。シンプルな解、図解を好んだ。数学的な匂いのする解法には敗北を感じた。とは言っても、例えば、整数論などは、数学の方が解き方がスマートだと思った。そうなると算数に数学を持ち込むことが悪なのかとまた悩んだ。わたしなりになんとか算数的な説明を考えたものである。
 どうすれば思考を蘇らせる教材を作れるか。わたしはいつも悩み工夫した。わたしの指導は、徹底して基本の習得にこだわった。前に述べた「引き付け」である。子どもたちには、技を教える前に「引き付け」を覚えさせたい。いや技なんかどうでもいい。とにかく引き付けである。技なんか自分でどうにでもなる。引き付けのできる子は自分で技を身につけていく。見様見真似ができる。だから竹の会は基本を徹底してマスターするまでつき合う。先の「読んでわかる」子がこれである。

 小6が「今年はどのように合格まで導くのですか」みたいなことを言った。何を言っているのか。そんなことより、問題をもらったら、合格ハンコを、取ることでしょ。合格はんこも取れない子に対策などないのだ。引き付けもできない子に対策などない。そのことがわかっていない。
 わたしはわたしのレジュメで子どもたちの脳を切り開く、そのつもりで作った。ただ子どもの脳は生まれながらにして同じではない。頭がついていかない子も当然いる。公立小だとそれが普通である。たとえ教育的にも、平等思想でも、このような事実は否定することはできないし、「べきでない」と価値論で歪曲することもできない。私たちの世界は、勉強で成功した者がいい未来を手に入れられる蓋然性が高いことはだれでも知っている。ただ勉強が得意でない者もなんらかの生きる術は手にしなければならない。たとえそれが恵まれたものでなくてもである。
 わたしは、そうした世の中の現実を踏まえた上で、つまり世の中には勉強がダメなためにいい未来を手にする可能性が低い人たちもいるということは当然のこととして、この生存競争の真っ只中にある皆さんの中から、磨けばなんとかなる人たちを、つまりわたしの力でなんとかなる、そういう子たちの指導の道を歩んできた。わたしの力ではどうにもならない子は、お断りしてきた。仮合格の子たちの中からどれだけ伸びる子が出るのか、ほとんど期待できないのが現実である。もはや指導は難しいという子にはかつては退塾を積極的に勧めたが、親も子も理解してもらえないことの方が多く諦めた。伸びないのだから塾にカネ払うのは不合理だとは思わないのだ。竹の会に見てもらいたい、そこには巷の塾への不信感が背景にあるのだろう。一度竹の会を経験するとなおさらなのかとも思う。それは竹の会に来て、それまでの塾の酷さがあからさまになることも大きい。大手の評判の塾ということで真面目に通ってもその無駄に気づかない、どころか信頼しきって疑うこともない。竹の会に来てそのことが初めてわかる。これまでの塾がいかに無駄だったかを、竹の会を知って初めて悟る。そういう人がいかに多いことか。本物を知るのは本物に出会ったときだけである。事前に本物なんかわからない。ところが、世の親は見識で選んだと信じ込んでいる。これはもう新興宗教に洗脳された、マインドコントロールされた親子が何を言っても聞かない、それと同じである。それが世の中の現実である。
 わたしは子どもたちの指導に命をかけている。「先生、絶対合格したい。」そんなことは痛いほどわかってる。でもどんなにわたしが手を尽くしてもダメなものはダメなのだ。そんなことはわかっている。しかし、冷静に時には冷酷に真実を見据えて、わたしは真実を秘めるしかない。これほど辛いことはない、この道35年だからわかることもある。命をかけるとは、ダメな子を冷酷に判断をすることなのである。この子はこのまま指導しても見込みは薄い、そんなこともわかっている。わたしは「わかる」。本人は気づかない。うまくいく、頑張ればうまくいくと信じている、不安ながら。しかし、わたしは子どもの能力の「底」を見ている。知っている。だからプロなのである。塾の先生ほど、辛い仕事はない。子どもの健気な心を壊すことはできないことなのである。子どもの心はガラスでできている。わたしがどうしてガラスを進んで壊せようか。
 だからわたしは諦めないで、レジュメを作るのだ。あなたたちの脳を蘇らすレジュメをと諦めないで作り続ける。子どもの能力の底を見るのが本物の塾の先生である。そのことを正直に言うことが正しいのか。竹の会が提示してきた退塾で喜ばれたことはなかった。たいてい恨まれた。
 竹の会のレジュメはわたしが子どもたちの能力の底を見極め、そこを意識しながら「引き付け」に徹して、作り上げていった、わたしの命をかけた結晶である、作品である。

 ※「竹の会が入会試験を実施するのは、学校の優等生を指導するためである」ということの補論

  平成20年頃の竹の会には、学校の通知表で「よくできる」が8割という子が来た。あの当時は入会試験がなかったので、酷い内申の子も多かったけど。この「よくできる」8割の子をわたしは学校の優等生と呼んでいる。そういう子たちの中には私立中受験で大手塾に通う子たちもたくさんいた。が、受験はしないで、つまりあまりお金を使わないですますという子たちも多かった。特に女子に多かったと思う。都立中高一貫校制度ができるとそういう子たちが一斉に受検にたなびいた。親の経済的負担を思いやる、できた子たちである。この学校の優等生というのは、割合のベタな問題ならなんとか解ける、理解するだけの能力があった。そして勉強にもまじめに取り組むのが常であった。そして指導すれば指導しただけの効果を出すのもこういう子たちであった。わたしは学校の優等生なら指導すれば合格させられると踏んだ。だから平成24年からそういう子の指導を念頭に入会試験を実施した。竹の会のような小塾が入会希望者をあえて切り捨てたのだ。受検生は3~5人でがんばった。それで学力をつけて合格するまでに仕上げていった。ところが、最近は正規の合格者以外も仮合格ということで救済を図るようにしてきた。しかし、仮合格者が合格することはかなり厳しいことも実証されている。仮合格者が受かったのは、30年の富士合格者2名しかいない。

 通知表で「よくできる」が8割ない子は、受検で成功することはほとんどない、ということをよく考えてみてもらいたい。昨今の都立中の適性問題の難化を見ていると、こういう問題が解ける子はほんとうに限られている、と実感しています。

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