2018.03.24
おはようございます。春霞に舞う花粉に苦しむ、こういう光景は昭和にはあったであろうか。アレルギーというのはほんとうに今は深刻になってきたけれど、昭和にはそこまでは騒がれなかった。その原因はどうやら抗生物質の多用にあるのではないか、そういう論文、著作物を最近よく読む機会が多い。今は内科にいけばいとも簡単に抗生剤を投与する。風邪に抗生物質はないだろう、とツッコミたくなるけれど、医師は「念のため」と決まり文句しか言わない。これほどふざけた話しはない。
今日はひさしぶりのお休みです。レジュメ集の調整その他に追われて、忙しい一日になりそうですが、合間を縫って外には出てみようかとおもっております。中学生の退塾が相次ぎ、わたし的には正直ストレスが減った、気が軽くなったのは確かです。中学生が、ずっと居眠りをしているとか(いくら成績がいいといっても)、わたしの指示とは無関係な勉強らしきことをやっているとか、まんがをかいているとか、レジュメをほとんど出さないとか、とにかくこういうことが大層なストレスでありましたから、退塾というのはわたしにはもっとも効果的な処方箋であることは間違いない、と思っております。実は、正直小学生についても、特に、仮合格で仮入会した子については、次第に能力の奥行きというものが見えてきた、指導の限界というものが、見えつつある、そういうときに、わたしの方から退塾ということも言い出しにくい、なぜって、子どもはそれは熱心に通ってくるし、理解もそれなり(飽くまでそれなりにです)に深まっていく、そうなると親御さんの竹の会に対する期待もふくらむ、そういう中で退塾などと口に出すことがいかに気が重いことか、日々能力を測る仕事をしているわけで、これはかなりのストレスであるわけです。わたしなりに工夫をして、指導の方法を思案し、なんとかいい形に導きたいと思ってはいますが、本来こういう仕事はわたしの本意ではない、そのことはご理解していただきたい、と思います。だからある段階まで、つまり計算を上達させた段階、もしくは割合の基本を教授せしめた段階をひとつの区切りとして退塾をお願いすることになろうか、と考えております。また受検ということで小6を過ごしても、おそらく合格の目はないということがわたしには早晩見えてきます。そういうときに、そういう見通しというか、学力の現状をお話しして、退塾していただくことがわたしには良心的な対応なのですが、相手のあることですから、そう簡単ではないわけです。わたしは常にこういうストレスをかかえてい。都立中はむやみに受けて受かるものではないということです。特に、ほとんどの家庭が勉強を後回しにしてでも、家庭の事情を優先させる、そういう契機が見てとれる、そういう家庭には、そもそも受検など考えないほうがいいのではないか、そう思っています。
「水は低きに流れる」ものですが、これを自然に適うとして流れるままにしている家庭があまりにも多い。自然に従うことがなんでもいいというわけではない。そもそも文化というのは、自然に逆らうことに原点があったと思うのです。特に、男の子に多い、殴り書きの字というのは、一重に親の、為すべきことをやらなかった責任です。字というものを覚える年齢に放置していたつけは大きい。
水は心。水は低きに流れるとは、人間の心というのは、楽な方に向かうということです。勉強しないほうが楽だから勉強しない、ただそれだけです。この辺については、細谷功という人が指摘している人間心理の説明が面白い。以下細谷の言。人間は、厳しいものから楽なものへと自然に流れていくが、逆は相当の覚悟が必要。思考状態が思考停止へと流れやすい、考えない方が楽なので知的に怠惰な方向へと流れていく。刺激はどんどん強いものを欲していく。など興味深い指摘が多い。
人の心は水と同じです。ともすれば低いところに流れていく。だからこそ心を律する必要がある。わたしががまんならなかったのは、中学生になってこの律する心が失われつつあるということです。指導時間中ずっと居眠りをしている、こういう光景を見ていると、「水は低きに流れる」様をリアルに見ているわけでがまんならない。あるいは指導時間中にまんがをかくことに没頭しているというのも「低きに流れる」様以外のなんであろうか。かつてすごい母親がいた。子どもを完全支配しているモンスターママと言っていい。この親子は勉強というものが地味でなんでもない、つまり特別なことは何もない、普通のことだということを理解していなかった。常に何か特別なものと考えていた。その特別なことをやらないからできない、あるいは知らないことが損であり、塾というものはそういう特別を与えてくれると信じていた。確かに、塾は塾特別の仕様はあるであろうけれど、大切なのは、そんなことではない。勉強というものが実は面白くもないことなのだということである。そういうものから逃げよう、回避しようという意思が垣間見えることである。地味な、普通のことに心を傾けるというのは、並大抵の律する心ではとても太刀打ちできない。すぐに楽な方へと流れるに決まっている。いろいろと勉強の環境を整えても、結局最後に向かい合うのは、勉強という地味なものでしかないのである。この普通のことから逃れることはできないのである。勉強しようということを志す限り、勉強というものの地味さから決して逃れることはできない。結局立ち向かうしかないのである。わたしが稽古事、習い事、法事という名の家族旅行、帰省という名のレジャー、その他、実は部活、合宿も、水は低きに流れるというときの、低きところなのではないか、ということである。なに、受検、受験などと言い出さなければ、何をしても勝手だし、低いところに流れ込み、溜まり、腐敗してもかまわない。要は、人間の心というのは、放っておけば、自堕落な人間になるしかない、ということである。よくわたしは殴り書きの字を見て、そういう字を書くことが、律する心のない表れだということを言います。ゆっくりとていねいになぞるように字を書くことはできるはずです。しかし、手の力を抜いて書く方が楽なのです。だから字を律して書くことができない。弱々しい筆圧というのも、幼いときから、じっくりと字を書いてこなかったからです。楽な書き方をしてきたからです。親は低きに流れるままにしてはいけないのです。子どもに律する心を宿す、それこそが教育でしょ。律しない心というのは、自己の心を制御できないのですから、こういうのが、周りの心にその制御不能の心をぶっつけてくるのですから、たまったものではありません。これをわがままといいますが、すべて甘い親、過保護な親が作り上げた失敗作です。律する心のない人間は、成功なんかするはずもない。寝たいときに寝る、食べたいときに食べる、もっと食べたいから食べる、部活も際限なくやる、それが勉強を犠牲することをわかっていながらやる。本来勉強という面白くもないことに向かわなければならないのに、回避する、さきほど部活もと言いましたが、部活も結局楽をする方向です。とにかく勉強を回避するということでは同じです。親の企画するさまざまな楽しい計画は、子どもにとってはまさに低きところに流れることを認めてくれる、公認の機会です。なにしろ勉強しないですむ、大手を振って低きところに流れることができるのですから。勉強するというのは、かなり抵抗に逆らっていく、だからかなりのエネルギーを必要とするものです。だから毎日のように勉強する、続ける、流れ続けていれば抵抗は少なくてすむからです。勉強をしない特別の日が多い子、家庭には、勉強というものは、抵抗が大きすぎて、結局楽をすることしか考えないようになる。家庭教師などというのも、自分で考えないですむから、楽をしたい、それに添う愚策です。楽をするということがすべて悪いというのではない。勉強を効率化する工夫というのは、無駄な努力を省力化することで、これを楽をするという一般で批判するのはお門違いである。
教育というのは、子どもに律する心を植えつけることです。なんでも欲しがるものを買い与えていたら、律する心なんか育つわけがないのです。りっぱな勉強部屋を与えられて、豪華な机、なんでももっているバカ娘、バカ息子が、自分を律する心を欠片ももたない人間として世に出ることを考えるとゾッとします。律する心のない人間は害悪です。こういう輩が他人、つまり人と関わることは不愉快でしかない。