2021.02.06
◎水を得たウオのように
高校入試の世界に「いる」ときは、私は幸福なひと時を過ごしている、とよく思う。
もともと私は高校入試の世界で生きてきた。昭和60年10月竹の会開設の年、最初に竹の会に入ってきたのは、代々木中2年の女子3人だった。この時から私の高校入試との付き合いが始まった。最初は、私には何もなかった。あるのは私の高校受験の経験、そして大学受験の体験、そして家庭教師の経験だけであった。私はいきなり東京の渋谷で塾を開いたのである。私の手元には何もなかった。塾を始めるというので、書店で開成と武蔵の過去問を、買ってきて解いた。それが準備と言えば準備だった。代々木中の2年生が来てくれて、私は教科書を揃えて、問題集を選んで、授業をした。私の授業の評判はたちまち代々木中2年の親たちに広まった。1か月もしないうちに、塾はいっぱいになった。昭和62年2月私は、初めての高校受験で、青山学院高等部、市川高校、都立駒場、都立目黒、都立大附属、國學院久我山などに怒涛の如く合格者を出した。竹の会はたちまち地元で知れ渡ることになった。この時から私の高校入試の旅は始まった。長く、苦しい、時には悲しい、そして時には幸せな道であった。数々の子どもたちの人生の途中に立ち会ってきた。竹の会に来てくれたのは、主に、地元の代々木中と上原中の生徒だった。ある年は上原中ばかり、またある年は代々木中ばかり、時には拮抗している年もあり、散発的に、松濤中、笹塚中、本町中などの生徒が混じった。元代々木教室の27年間で、代々木中と上中の竹の会の卒業生は数百人に達するかもしれない。正直卒業生の顔は覚えている自信はない。
元代々木教室の27年間、中学入試の小学生、大学入試の高校生も入れれば、いったいどれだけの卒業生がいるのか、わからない。
平成10年から20年は、都立高校の凋落、公立中学の学力低下が、叫ばれた時代であった。加えて少子化が現実味を帯びてきた時代でもあった。竹の会にも学習不振の中学生がよく訪ねてくるようになった。かつてのように学校の優等生がいつもいる、ということもなくなった。
平成17年公立中高一貫校制度スタート前年だったか。竹の会に九段志望の小学生がやってきたのが、平成18年4月のことだった。翌19年3人いた小6のうち、1人は11倍を突破して九段合格、2人が東大附属に合格した。実に合格率100%という快挙だった。私は高校入試を止めて、公立中高一貫校の指導にシフトする決心をした。もはや竹の会にやってくる中学生は落ちこぼれしかいなかった。それでもたまに竹の会を慕ってきてくれる真面目な中学生はいた。平成20年には都立西、豊島丘女子、立教新座、桐蔭理数などに合格者を出した。この頃から中学生は1人ないし2人という時代が続くことになる。高校入試冬の時代に突入して、竹の会で蓄積されてきた高校入試のノウハウは年1人いるかいないかの受験生に使われるのみとなってしまった。平成10年早稲田実業に受かった鈴木君が、渋谷教室開設のときにお祝いにやってきて「先生、もったいないですね」と竹の会の高校入試のノウハウを惜しんだのはわたしには内心響いた。竹の会創生期には、中3受験生は十数人いるのが当たり前だった。わたしは、授業をこなし、過去問を解かせ、私も過去問を解き、解説を作り、プリントを作り(当時はレジュメの概念はまだなく、プリントだった)、補強の教材を手当てし、竹の会オリジナルのテキストの執筆にも情熱を注いだものである。首都圏の高校の過去問なら知らないものはなかったというくらいに、過去30年に渡って、解き尽くした。過去問の利用法もわたしの場合は、指導教材の利用としての意味があった。二次関数なら瞬時に適切な高校の過去問を取り出せた。〇〇高校〇年の○番という具合だ。〇〇高校の過去問は小問20問で、中学3年間の履修事項を満遍なく出すとか、私は、自分の望みの問題、しかも必要な問題をたちどころに適材適所に用意できた。竹の会には首都圏の過去問なら全て揃っていた。
竹の会は過去問を駆使することで、確かな実績を出してきた。竹の会は過去問の使い方なら群を抜いていたと思う。私はよく「高校入試の専門家だ」と言ってきたが、そこには、様々な意味が込められている。普通の子をその子から見れば奇跡的という学校に受からせる、模試のデータの分析から合否を予測する、例えば、理科、社会の点が取れない子を補強して80点超取れるようにする、子どもの弱点を見抜き手を打つ、勉強のできない子をそれなりの高校に受からせる、とにかくあらゆる難局になんとか解決の糸口を見つけ、成功させてきた、そういう深い意味を込めて、高校入試の専門家ということを言ってきた。竹の会の実績を見て、たいしたことはないと批判する人がいたが、高校入試の合格校というのは、本人たちにとっては、自分の成績から見てとても無理という中で勝ち得たものであり、みなそれぞれにドラマがあった。合格は奇跡であり、喜びの涙に暮れた子たちには、大切な自分の未来への道であった。私はその子たちの苦しかった受験時代を共に過ごしてきた者として、たいしたことはないと統括する人に憤りを感じた。わたしを批判するのに、子どもたちを蔑むことが許せない。地元塾というのは、地元の中学の様々な成績の生徒が来る、できる子もいるが、むしろ勉強の嫌いな生徒ばかりなのが普通なのだ。そういう子の受験を成功させることがどんなに難しいことか、わかるはずもないか。
私は、トップ都立を目指して竹の会にやってくる子には、正直嬉しさを隠せないのかもしれない。トップ都立高校入試の指導をしているときの私は、水を得た魚のように活き活きと、いや自信に満ちている、喜びに満ちているのかもしれない、と我ながら思いを馳せる。
高校入試は、私の原点であり、トップ都立の指導は、かつて受験生20人前後を相手に授業していた昔の光景が鮮やかに蘇り、なにやら活力が湧いてくる、水を得た魚のように!