2019.04.16
父と母に謝らなければ
いつか竹の会をやめるときがくる。そのときは、今度は時間を気にしないでいつまでもそばにいてあげたい。父と母の死に目に会えないで、いつも不幸をしたのに、いつも塾の子たちを見守ってくれてありがとうございます。竹の会から自由になったら、父さん、母さんに謝りにいきます。
そのときは、故郷の山河を野山を心ゆくまで歩きたい。父と母の生きた、私が生まれて、幼年期を過ごし、中学、高校と駆け抜けて来た、あの街、あの川、あの山、あの谷、みんなみんな懐かしい。駆け回る私が今でも目に見えるように鮮明に目に焼き付いて離れない。
内山渓谷、黒部峡谷、志高湖、城島高原、扇山、六枚屏風、朝見川、境川、朝見神社、ラクテンチ、乙原の滝、実相寺、十文字原、湯布院、みんなみんな思い出の場所、いろんな事件があった場所 。
小学生の頃から、 別府湾の防波堤でよく投げ釣りをした。たいていコチしかかからない。それでも婆ちゃんは、喜んで煮付けにしてくれた。裏の土地は畑として使われてたいていの野菜は獲れた。ナス、キュウリ、白菜、苦瓜、カボチャ、ほうれん草、なんでも獲れた。婆ちゃんは野菜作りの天才だったんだ。ニワトリもいた。白色レグホンとチャボが、十羽はいて、毎日卵を産んでくれた。大根の葉を切って、糠と貝殻を砕いたものを混ぜて、食べさせた。大きな卵で、近所の人が分けてくれとよく来た。裏には、柿の木と夏みかんの木、ぐみの木、キンカンの木、があった。実のなる木はワクワクした。よく屋根に上り、霞網をかけた。スズメが面白いようにかかった。わたしが屋根に上がったために雨漏りして迷惑かけてしまった。スズメと言えば、あの頃、メジロ獲りが流行った。山に入ると、メスのメジロを籠に入れて、近くに黐(もち)の木から取った粘着のいい黐を棒に塗って仕掛けた。オスがやってきて羽に黐が張り付いてバタバタしてるところを捕まえる。毎日毎日が遊びのことで頭がいっぱいだった。そんなわたしが中1になって勉強に目覚めていく。
山は四季の変化をそのままに変化した。冬の山は人を寄せつけず、春は、ワラビが、一斉に丈を競う。わたしはワラビ穫りが好きで、よく志高湖に行った。ラクテンチのある山を越えて乙原の滝を見上げながら歩く。いつしか眼下に乙原の滝を見下ろし、急な山道を1キロも歩けば志高の丘を見上げる真下までたどり着く。後は一気呵成に上り詰めると、一気に視界が開け、青々とした高原の風景が広がる。火山湖の志高湖は辛うじて水を湛え、周りの草たちを潤す。野焼きの後には柔らかいワラビが群生する。たちまち糠袋は蕨で埋まった。わたしは糠袋にギュウギュウに詰め込んで、持ち帰った。婆ちゃんは、いつも喜んでわたしを迎えてくれた。食卓には、ワラビの味噌汁、ワラビの煮付けなどが、並んだ。秋は、なんといっても自然薯掘りだった。これは玄人に習わないと最初は無理である。まず群生する場所を見つける。葉っぱを見て見分ける。似た葉っぱがあって、間違って掘ると時間と体力のロスになる。だから慎重に見分ける。後、葉から自然薯の大きさを推測するのも年季がいった。折角苦労して掘り下げても小枝のようなのではガックリくる。何回か失敗を繰り返し、次第に目利きになる。掘りは、道具がいいと楽である。赤土で、坂、崖など人の近寄らないところに大物がある。深い時は2メートルは掘る。山奥ほど大物がある。ただイノシシに出会うこともあるから怖い。いやそれよりも猟師の鉄砲の音が近くでやたら鳴り響く時の方が怖かった。見事な雉がいたりして、獲ることは叶わないが、いつかもらった雉を家族で食べてうまかったことを思い出した。自然薯は好きで今も田舎の弟が、晩秋になると、玄人が掘りに行ったものを手に入れて送ってくる。あれはうまい、とにかくうまい。
朝見川は、どんこがいて、釣ったり、掬ったり、ととにかく何時間も遊んだ。城島高原は、鶴見岳(標高1374メートル)の麓を走るやまなみハイウェイで、別府市街から、車で40分ほど、標高800メートルほどのところにある。途中志高湖入口がある。冷たい空気が気持ちいい。長閑な行楽施設もある。そのまま国道を行けば、やがて湯布院盆地に至る。志高湖入口から国道を少し行くと途中内山渓谷へと分かれる道がある。国道をさらに進むと、黒部峡谷がある。黒部峡谷は、高校卒業した夏に、友人たちに誘われて初めて行った。真夏というのに、谷川は、ひんやりと冷たかった。友人たちは、みな大学生、自分だけ宙ぶらりんの身分で、心は暗かった。内山渓谷は、高校の時、なぜかクラスで行くことになり、覚えているのは、淡い恋心を抱いていた女子を帰りが夜になり、級友二人と家まで送っていったことを思い出す。
ラクテンチというのは、山に作られた遊園地兼動物園です。私が物心ついた時から連れられてよく行きました。ケーブルカーで上まで行って、一日遊んでまたケーブルカーで降ります。家から歩いて15分のところにあります。
別府は、海と山に囲まれた、温泉都市です。都市というのは、大袈裟ですね。人口は12万人ほどですから。昔は観光客で賑やかでしたが、今は昔の面影はない。ただホテル、旅館の数は、とにかく多い、と思います。
六枚屏風は、山が折り重なって屏風のように見えることから付けられたのだと思います。住んでいた家から見上げれば、とにかく折り重なった山は見えますが、これが屏風に見えるとはとても思えない。小学生の頃は、ここにはよく行った。岩松を取りに行ったり、野いちご摘みをしたり、夢中で、駆け巡った。あの時、野いちごと似て非なるもの、蛇いちごも覚えた。毒だから食べてはいけない、と誰彼となく教えられた。岩松は、崖の上などに群生することが多く、山道を歩きながら、崖を見上げて探した。いいのを見つけたら、崖をよじ登って刈り取った。家に持ち帰ると植木鉢に植えたものである。
私の生まれた町、別府、私が、物心ついてから、幼稚園、小学校、中学校、高校時代を駆け抜けた町、今は小学校も中学校もみな統廃合でなくなってしまったけれど、確かに、わたしは、かの時代、あの町で、生きてきた。高校は、あの頃は、県下御三家と言われた名門校だった。県下から秀才たちが集まる、別府に唯一の名門進学校だったけど、勉強勉強に耐えられず私の心はいつも荒んでいた。私の青春時代はいつも重苦しく、押し潰されそうになってもがき苦しんでいた記憶しかない。だから父さん、母さんにもずいぶんと嫌な思いをさせてきた。あの頃は、父と喧嘩ばかりしていて母を泣かせてきた。
別府ならどこでも知っている。どんな路地裏でも知っている。だってわたしは別府の生まれなんですもの。あの街で笑い、泣き、苦しみ、父と衝突し、母を泣かせてきた。父さん、母さん、今度はもうどこにも行かないでずっとずっとそばにいますから、どうか許してください。