2025.01.26
🟧勉強の「気」があるか❗️
塾に入る。問題は、やる「気」があるか、ということである。主に小学生を想定している。中学生は問題にならない。やる気のない中学生など、既に終わっているし興味はない。小学生は普通に勉強などしたくない、遊んでいる方がずっと楽しいというのが普通の子である。だから勉強が好きというのは普通じゃない。と、これは昭和の話しである。東京は小学生の大半が受験をする。都立受検組を含めるとさらに増える。ただ親主導が大半であろうからまだ判断力を持たない子どもはどうなのだろうか。親の言われるままに塾に毎日通う子どもの心情はどのようなものか。
特に、小学低学年から塾に通う子たちはどうなのだろか。たいては母親の言われるがままに抗うこともなく素直に従うのだろう。子どもが自尊心が強いと突然「受験したい」などと言い出すのも珍しくない。ただ自尊心発の受験は自尊心が崩れるとき途端に逃げ出すこともよくあることだ。頭のそれなりにいい子の自尊心は結果が良ければそれなりに満たされいい方向に向かうかもしれない。頭が普通の子の自尊心はできるところまでで、それまで天狗になっていたら急にできなくなったら突如として自信喪失となり現実から逃避する。頭のそれほどよろしくない子の自尊心は劣等感のため却って繊細である。以上に言葉に敏感でなにかと傷つきやすい。
こうして子どもは、どうでもいい自尊心で潰される。
子どもたちの大半は勉強することに何の違和感もないのが普通である。しかし、中にはその「気」がない、明らかに勉強というものに居心地の悪さを隠さない子どもというのがいるものである。そういう子の指導は意味がない。あからさまにやる気のない、気を撒き散らす子は指導のしようがない。宥めすかす、気を紛らわすなど本来親の躾、教育の次元の問題である。子どもというのは、親の作る家庭環境によっていくらでも出来損ないとなる。塾は親の育てた子どもをあるがままに引き受ける。だから未熟、幼い、我儘、どうしようもない子どもが突如として静謐を乱す。前兆はある。そういう子は自分の気分を躊躇いなく表面に出すからである。親が「挨拶を」と促してもそっぽを向く。そういうわけである。
親の中には、竹の会の仲間に入れてもらって、勉強しない自分の子をなんとかしてもらいたい、というのがいる。本末転倒型の親である。これまで躾けてこなかったつけを転嫁するなんとも迷惑な親である。
見所のある子は、自発的な勉強する気に満ち溢れているものだ。逸材と思わせるのは、素直さ、そこからくる礼儀正しさ、そして芯のある、努力家であり、芯の強さは、強かな精神を育む。逆境にあっても耐える強さも持ち合わせている。こういうとき、わたしは、逸材に出会ったと思う。そうするとこの子のためにはわたしの持てる力を余すことなく注いでやらなければと真摯に感動する。
わたしは子どもの「気」を掴むことにいつも心を砕いてきたと思う。いつも子どもの心が奈辺にあるのか、その気をスッと掴む、そういうタイミング、そういうことに神経を傾けてきた。