2025.05.10
🔶合格レベルに達すること❗️ わたしが「合格レベルにある」と判断しなければ受かることはない‼️
わたしが、何も言わないときは、合格するとは思っていないからだ。
「合格します」という判断は、難しいが、「不合格」という判断は、普通にわかる。合格するかどうか、何とも言えない、というのはよくある。それはわたしが、合格するかもしれない。しかし、落ちても不思議はない。そういう心境にあるときだ。落ちても受かっても両方ありうる。わからないのだ。受かると判断するときは、ほとんどはずさない。もちろんはずれたこともある。だからほとんどである。例えば、本年東大に合格した卒業生は、開成高校に合格して現役の合格であるが、実は、小石川を受検して落ちている。早稲田進学会模試で全開成績優秀者に名前を載せた子である。わたしは「受かる」と予想した。しかし、外れた。なぜ落ちたのか。本番でとんでもないミスをしたのか、それとも内申に「もう少し」が何個かあったからか。それはわからない。とにかくわたしの予想は外れたのだ。
落ちると判断した子が、受かったことはない。
このままでは、「落ちる」だろうというのは、普通にある。それは、指導の頓挫を見るときである。普段の指導も、季節講習の指導も進捗が捗々しくない。これは明らかに黄色信号である。こうとう子は季節講習のレギュラー・コースで済ますのがほとんどである。遅れているのにである。だからどうあがいても確実に、遅れていくばかりである。なのに部活などでさらに指導は幾度も中断し、季節講習も、これだけ遅れているのに、家族旅行なんかを平気で優先させて、休む。
常に、指導を優先させて、時間を最大に取らなければならないのに、平気で行楽を優先させる家族の姿勢は、はっきり受検には不向きである。指導時間が多いほうが、最も合格に近いことは自明のことだ。それなのに、最小時間で済ます。これでそれなりなところに受かるわけもないのに。そこがわかっていない。受験は、予定通りに落ちて終わり。いつもこの風景は変わらない。受験をやる、ということは、合格を手にするということは、カネをかけないでという条件付きなら、失敗が予定された受験である。そこがわかっていない。
中学までは、手をかけたら、かけるだけかけたほうが、絶対に受かる。そんなことは、わかりきったことだ。本人が、頑張ってもどうかなることはない。それほどプロの指導は凄いということだ。そもそもプロに全幅の信頼を置いて預けたのか、そういう覚悟のない、習い事感覚の親では、受験は失敗して当然なのだ。