2025.01.16
🟧非日常が子どもを成長させる❗️高校入試の名人 竹の会の主張
日常は、私たちには安住のエリアである。日常の内にあるものは、思考なしに行動する。それはそうであろう。朝起きて歯磨く、それを一々考えて行動する人などいまい。日常というのは、「考える」、つまり悩むという脳の負担から解放するエリアである。3.11の津波のとき、多くの人に、いわゆる「正常性バイアス」がはたらき、事態を正常性の範囲内にある、つまり未だ日常のできごとと捉えて避難しなかった人たちが、一定の数いたということである。これほど人間というのは、日常性に対する執着が強いのである。事態を非日常と認めたくないのである。非日常となった途端、たちまち判断を求められる。特に、災害時はパニックになること必然である。
日常の生活域内に、突然オレオレ詐欺なんかの電話が飛び込むとたちまち騙される。オレオレ詐欺は非日常であり、日常の中にあって突然「考える」ことを求められる。騙されるわけである。
このように非日常というのは、日常という思考免罪符が使えないのである。
受験、受験勉強は、非日常である。高校受験なら、小2期から基礎の訓練をしなければならない。中学受験なら今は小3あたりから小6の1月まで想像を絶する非日常の世界に身を置くことになる。高校受験は、そのまま非日常を3年弱継続しなければならない。ところが何を勘違いしたか、中1から部活などに時間を浪費する。家族旅行、その他の遊び、つまり中学を日常にしてしまう。こういう人間、家族は、わたしには関心はない。小学時代を日常生活の中で過ごしてきた人間にも関心はない。然り而して中学受験という非日常の中にいた人たちの大半は、第一志望に入ることはなく、第二、第三、あるいは公立中にと流れることであろう。非日常は、人間的に成長する機会ではある。ただそれとしても学力も含めてわたしには中学受検は悲観的な想像しかできない。
何にしても基礎である。中学受験はこの基礎を疎かにしたままの子もかなりいるはずである。基礎の中には、前提として、思考力の発揚があるのはもちろんである。
わたしは、小学期に基礎を固めて、高校入試で、都立独自校(日比谷、国立、西など)、筑駒、開成、早慶を取ればいい、という考えのもとに、高校入試で勝負してもらいたい、と考えてきた。
高校入試はわたしの専門です。わたしの想定した通りに勉強してもらえば必ず成功させられる、ということを実績で証明してきた。わたしの完成された指導体系は高校入試において驚異の結果を出してきたのだ。わたしには、入試に付随する、あらゆる障害を克服してきたという、揺るぎない自信がある。竹の会が蓄積してきた入試のノウハウの数々は様々な困難、トラヴルを解消するのに常に有効に働いてきた。然り而してわたしは高校入試コンサルの名人となった。渋谷で40年高校受験、そして中学受験、時には大学受験と休むことなく受験の現場にいた。盆も正月もなく常に非日常の中にいた。非日常というのは、常に新局面に対して考えなければならない。休まることのない日々であった。