2025.02.10
🟩合格しても落ちこぼれという地獄❗️ 合格すれば我が世の春というわけではない❗️
落ちこぼれのメカニズム❗️
どんな奴が落ちこぼれるのか❓
中学入試とは、合格した者と落ちた者を二分し、合格した者の中から落ちこぼれを排除し、落ちた者の中から、少数のエリートを拾い上げる、仕組みである。拾い上げられた少数のエリートは、合格するも落ち溢れた者を凌駕する。
落ち溢れ層の顔触れ
とにかく合格したことは前提である。それも第二志望にも落ち溢れはいるが、第一志望を念頭に置いている。第一志望の偏差値は高いことも前提にしている。
例えば、開成に合格しても、下位層は落ちこぼれとなる。合格するまで、一番、秀才と周りからもてはやされてきたが、入学してみると、周りはそんなのがゴロゴロしているわけである。その中でも、さらに際立ってできる者がいるのである。かつての秀才ともてはやされた子たちは、落ちこぼれとなる。端的に、勉強のレベルについていけないのである。
授業についていけない、というのが、落ちこぼれの本質である。
能力が高くても、合格までに、ギリギリの実力しかつけられなかったという子は落ちこぼれる。
日比谷高校を例にしてみると、まず、もともと実力というものがない、推薦合格者は、落ちこぼれの指定席につくことがほとんどである。また、私立難関を受けるというのではなく、都立一筋に来た子たちも落ちこぼれの定コースを辿ることであろう。日比谷のトップ層を飾るのは、開成合格者、惜しくも開成に届かなかった者、慶應女子合格者、早稲田実業合格者、慶應合格者などが主力となる。それらを惜しくも落ちた者もトップ層に位置する。中に一人二人もともとの天才がいる。特に、受験をやったということもなく、それらの者に伍してトップ層に付ける。
落ち溢れは、悩む。授業が速い、わからない、わからないが積み重ねられていく。もうどうにもならない域にある。落ち溢れになるのは、もともとのバカではない。とにかく多くの受験生が羨望の学校には受かっているのである。合格したときは、我が世の春と周りからはやしたてられたことであろう。しかし、入学してみると、秀才と自負してきた自分程度の子がゴロゴロいるではないか。それよりもその秀才たる自分より遥かにできる奴がいる。それもたくさんいる。進学校の授業は、できる奴に合わせる。必然落ちこぼれは出てくる仕組みである。落ち溢れは諦める。やっても仕方ないと諦める。他から見ると頭はいいのに怠けていると見られる。しかし、彼ら彼女らは悩んでいるのである。自尊心が自分を許せないのだ。だから放棄する。ヤケクソになる。進学校というのは、一旦授業に遅れるともう二度と取り返せないところがある。インフルエンザで休んだらもう終わり。進学校はプリントで宿題をドッサリ出す。ところが、休んだら最後休み中に配られたプリントはもう手に入らない。級友が何十種類ものプリントを綻びなしにもらっておいてくれることはない。後から各先生にもらいに行っても、「もうない」とか言われて終わりだ。要するに、進学校には真の友だちなんかいない。クソ野朗ばかりだ。落ち溢れは、こういう具合にしても生まれる。進学校ならではの落ちこぼれの発生だ。
天才はいる。しかし、それは問題にしない。要は、実力をつけられるのにつけられなかった層である。実力は自己の才能だけでつくのではない。先人の助けが絶対に必要だ。先人が一言助言しただけでもたちまち解決することばかりだ。一人で迷い悩むから落ちこぼれるのだ。わたしは先人の中に参考書、優れた参考書も加えたい。もちろん塾で出会った先生が、かけがえのない先人となることもある。
落ちこぼれは表に出ることはない、成功者の陰に隠れてひっそりと棲息し、どこともなく埋もれていく。自尊心を傷つけられた、元秀才たちの、人生は知らないが、とにかく生きていくしかない。