2025.01.14
🟧「読まない」という方法
現代は知識の洪水に侵食された時代である。大いなる誤解は、人は言葉というものが、脳そのものの声だと思い込んでいることです。だから言葉で出て来る音声をすべて真実と誤解する。言葉というのは、脳の中で形のない情熱・観念を言葉に置き換えたもの、いわば変換装置という言語です。発せられる言語は、脳のイメージを形にするものですが、情念をそのままに表現できない、不完全なものです。ところが、その変換装置が、言葉の自律性というようなもので、脳とは関係ないところで、つまり、言葉の論理が一人歩きし、脳の情念とは無関係に暴走するようになった。ただ無関係というのは、やや語弊がある。人間の言葉は、実は、様々な欲に支配されているのではなかろうか。欲は、脳の情念とは別次元にある。欲が情念を支配するからである。こうして、言葉は、欲が発することとなる。そのために言葉は運命的に陥穽に陥る。言葉が愚かな人間を支配する。人は言葉に騙される。言葉の論理のゆえに悩む。「人は何故存在するのか」という答えのない問いを言葉のトリックに嵌って問いかける。存在するのは、脳が目撃した事実である。別に言葉如きが何を言うのか。言葉の分際で何をほざくのか。
さてわたしは知識の氾濫する世の中で、わたしたちが、脳の正常な働きを言葉という凶器によって阻害されていることを憂いて止まない。私たちは、読まなくでいいものを強いて読まされている。脳の健常な維持のために、わたしは、「読まない」という方法が是非とも必要であると悲壮な気持ちでいる。
かつて専門書を読み明け暮れた日々、わたしは、読むことで精神、脳を破壊してきたのだと思う。
話しは、脱線するが、読書(多読)は、現代文読解力を少しも高めないこと、また、問題集の類いを読むことも、少しも読解力に資することはないということを注意喚起しておかなければならない。
後者は、過去問を何度やっても得点率ば変わらないということで経験した人もいるだろう。当たり前の話しである。過去問は現在の力を検査しただけて、たくさんやっても、力は変わらないのは当たり前である。前者は、ランニングをいくらやっても速く走れるようになるわけではないのと同じだ。
国語読解の鍵は、ただ虚心坦懐に読むしかない。ただここで知っておかなければならないのは、本文の中の、客観的な一文に注視しなければならないということである。文章というのは、具体と抽象の織りなす、流れである。抽象というのは、普遍性、一般性という属性に見られるように、客観的なものである。
読んではいけなかったのだ。基本的なもの以外は。クロスレファランスという言葉がある。基本書を読んでいて知らないタームが出てきたら、索引から他のページを参照する。また他の文献を参照する。これは確かに理解を深めてきたと思う。しかし、これはとても遅くなる。
受験、試験というのは、「速いこと・早いこと」を至上とする。だから基本、基本だけでいいのだ。発展、応用ばかりやる、またやらせる指導者がいたら、これはまずいでしょ。破滅的なのは、基本がまるでできてないのに応用ばかりやることだ。
だから、基本、核となるものしか読まないことだ。「読まないという選択」こそが最上の方法なのだ。
読まないで、一応の区切り(結論)をして、深入りしない、これが受験、資格試験の処し方だ。
こうして読まない選択をするとして、そうなるとじゃー読むのは何か、ということになる。そうなのだ。何を読むかが一番大切なのだ。なにしろこれしか読まないとしたら何を読むかが窮極の選択になるからである。それは先人に習え。自分で判断すると失敗する。先人は試行錯誤を重ねて、失敗を重ねて、たどり着いた経験を持っている。それから決して参考書の浮気をしないことだ。これはデカルトの「方法序説」にある通りである。
わたしはただいま「国語ポイント集」の執筆準備のために毎日さまざまな国語関連の書物を読んでいます。その中で国語読解について考えることになりました。これまでわたしは文章を読むときに巷の予備校講師が説いているような方法論など考えたこともなかった。ただ読むだけでした。読むのになんで細かなテクニックがいるのかさっぱりわからない。それでわたしはわたしで国語読解の方法というものを考えてみたわけです。もちろん「国語ポイント集」でわたしの読解方法を書きたいからです。なぜ読み取れないのか。これまで国語がまるで解けない子たちをそれはそれはたくさん見てきました。彼ら彼女らにはぽっかりと何かが欠落している。片寄った、まだらにもなってない知識、そして子供じみた視点、幼すぎる見方、誤解するのが当たり前な偏見に満ちていました。さてこれをどう修正していけばいいのか。前にも書きましたが、過去問集をやること、問題集をやること、そして多読することはいずれも読解力をつけることにはなりません。「国語ポイント集」の執筆に際して、読解という、これまで多くの人たちがその方法論を唱えてきた分野について、わたしの「ただ読む」ということ、そして「読まない」という方法について、展開していきたいと思います。