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現代高校受験指導論 国語とは「教養である❗️」

2025.01.12

🟧国語とは「教養である❗️」
 国語ができない❗️そういう子を夥しい数見てきた。できない子は大抵漢字が書けない。言葉を知らない。だから国語に関わってきた経験がほとんどないのだ。学校の教科書でしか国語と接したこともない、そういう子ばかりだ。読書をしない。これも共通だ。悩みがない。悩みは「言葉」の専売特許だからである。最近、よく池田晶子の本を読み直しているが、昔は、なんだこの人、屁理屈ばかり言って、言葉遊びばかりだな、と思いながらも、言ってることには、鋭いなと評価はしていた。昔買った養老孟司の「唯脳論」は文庫本で活字が小さ過ぎて読むことができない。それでネットで探したら、ハードカバーの初版本でほぼ未使用を格安で手に入れられた。早速読み始めたが、まさか養老孟司から言語というものの正体を教えてもらうとは思わなかった。現代の哲学が言語論的転回を遂げていることは国語論を研究していて石原千秋の著書から情報を得た。岩波から出ていた「言語論的転回」の論文集を読んでみた。養老孟司の言語についての考察はその通りだと思った。わたしは、そろそろ言語というもののシステムに気がつき始めていたのかもしれない。池田晶子の哲学を読んでいると、なるほど言語というものが、脳からな離れて独立して世界を作るなら、言語の暴走は避けられまい。わたしが食わず嫌いだった哲学というのは、もしかしたら言語の独りよがりを言語論で暴くものであったのか、そういう目で池田晶子の文を読んでいくと、ただの言葉遊びではなく、言語の独走を戒める文に読めなくはない。
 さて、わたしは、国語とは、教養である、という立場から、今回「国語ポイント集」の執筆に入ることになりました。世の中には、現代文の読解技術を謳う、定評ある予備校本が十指に余る勢いで出回っています。しかし、わたしはそういうテクニックを説く本はあまり信用していません。やはり長い間読書をしてきた人間には、ひたすら読んで理解する方法しか思いつかないのです。ただ現代文を読み解く、その時に、総動員されるのが、語彙、歴史、文化、思想、政治、経済などの教養なのだと思うのです。わたしは、わたしの素朴な読解法を勧めるでしょう。そして「国語ポイント集」は、中学生、高校生諸君に、国語を、理解するための教養を説くことでしょう。これだけは知っておいた方がいいですよ、という国語の教養を過不足なく取り上げていきたい。渋谷で塾40年のわたしにしか書けない国語の参考書を書きたい。そう思っています。
 気になること❗️
 国語の問題を解くときに、本文を読んで問いを読みますか。それとも問いを予め頭に入れてから、本文を読みますか。
 よく受験指導者には、まず問いから読んで、それから本文を読め、と指導する人がいます。確かに、かつて平成27年都立戸山合格の生徒を指導したとき、英語について、わたしもそういう指導をしたことがあります。その生徒は、受験直前の11月のことだったか、戸山の過去問がどうしても時間内に終わらせられなかった。長文を読み取るのに時間がかかって、問いまで行かないのだという。あのとき、いわゆるスラッシュ法を教えましたが、さらに、設問をまず読んで、傍線部の周辺を読んで、答えるという、やむを得ない方法を取りました。そうしたら、なんとか時間内に収まるようになった。しかも、それなりに合格点を取るようになった。
 この方法を国語でも使えるか、ということです。しかし、ちょっと待ってください。国語は日本語ですよ。長文を読みきれないということはないのではないか。
 それよりもわたしが、実際に、例えば、早稲田大の現代国語を解く場合、設問を先に読むと、その設問が意識に流れて、とても本文を読み取るどころではないんです。それに考えて見れば、わたしが大学受験のとき、どうだったか、思い出しました。わたしはもともた現代国語が得意でしたが、迷うことなく本文を読んで、問いに答えていました。これは英語も同じで、旧帝大の英語は、長文が出て、傍線部を訳せの形式しかないのですが、あと大きな問題として、和文英訳ですね。だから本文から読むのになんの問題もなかったわけです。しかし、今の文法やらなにやら華やかな設問だらけの英語とはかなり様相は違うと思いますので、設問から読めということも一理ありそうです。ただしかし、国語については、やはり本文に集中しないと、本文が読み取れない、と思います。設問を先に読むのは、どうしても本文の読み取りを阻害すると思います。もし本文を読み取るのに時間がかかるとするなら、それはあまりにも語彙などの教養不足ということではないでしょうか。

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