2019.03.09
🔴理科、社会の、勉強のやり方が、わからないので、できない、という人について
まず、こういう人、というか、何かをやるときに、方法が、わからないから、できない、という人は、そもそも勉強をやらない、やってこなかった、という人なんです。
やらないで、二進も三進もいかなくなったから、何かいい方法があるのではないか、できる人はその方法を知っている、と考えたいわけです。
そもそもやらない人間に何かができるということはない。
方法なんてものは、やる人それぞれで、特に、勉強の方法などというものは、何時間も何日間も、何か月間も勉強しながら、次第に、わかってくるもので、人に教わるとかいう類、性質のものではない。
そういうことを踏まえて、理科、社会の勉強の仕方というものを考えてみる。
だれかが、ワークとか、参考書みたいなものをやればいいのですか、と質問してきたが、理科、社会のできない人、いや勉強というものをしない人というのは、すぐ、そういう特別なことを言うけれど、勉強を大切に思う人、まあ、内申なんかもよくて、定期試験では、理科、社会なんか普通に90点なんかとる人なんですけど、こういう人がやるのは、まず、教科書を読むこと、それしかやらない。とにかく何回も読んでいる。そしてノートにまとめたりなんかしている。やることはそれだけなんです。それでまず90はとれる。あと、内申も含めて、授業を大切にすることが、ポイントです。中学の定期テストは、基本、授業でやったことが、出る、ということです。授業ノートはとにかくこまめに取ることです。これはテストに出ることを予め教えてくれてるわけなのですから。
これが高校だと、1回病気で休むと、もうわからなくなる。それが普通のことでした。親切に友達が、休みの日に配られたプリントを取っておいてくれることもないし、あっても必ず抜けている。授業のノートなんか見せてくれる奴はいない。とにかく嫌な顔をする。進学校に行ってる奴は、基本、だれかが落ちこぼれるのを喜んで見ているから。私は入学した時、国立クラスで、入学試験の成績が1番だったので、いろいろ役員とかに任命されたけど、とにかく受験というものを知らない田舎者であった。あの当時、私が、落ちこぼれるのを、みんな喜んでいたと思う。余談ですが、進学校というのは、修学旅行もないんですよね。
これはみなさんもよく知っておいてもらいたいのですが、中学でも、高校でも、大学だって同じです。難関国家試験も基本は同じ。みな教科書を読み込む、何度も読み込む、理解する、覚える、それだけなんです。みんな、この「理解する」「覚える」で、苦労しているわけです。理解するのは、もちろん「読んで」理解する。わからないとき、どうするのか。読んで考える。 参考書や問題集にあたる。これも特筆すべきことですが、進学校のできる奴は、たいていの参考書、問題集をほとんど全て備えている。カネかけてる。天才でもない限り、参考書貧乏の人は、落ちこぼれる。
「覚える」というのは、具体的な方法というものはあるのかもしれない。しかし、この「覚える」にしても、まず読むこと、理解することが、前提になる。実は、この読む、理解する段階で、「覚える」が、終わる人もいる。東大首席卒業の山口真由さんは、7回読んで、覚えたらしい。
いきなりノートをとる、ノートにまとめるというのは、要領のいいやり方ではないと思う。ノートにまとめて覚えるという方法、つまりサブノートを作って覚えるという人が、実は、大多数ではないかと思う。まとめる、整理するという過程で、覚えていく。かつて東大生のノートというのが、出たことがあったが、それを見ると、みなすごいノートを作っている。サブノート勉強法は、ほとんどの秀才たちの常套手段のようだ。山口真由氏のようなやり方の人は少数派なのかと思う。難関国家試験はやや趣きが違うようで、こちらは予備校に通うのが前提で、予備校のテキストを使う人がほとんどと思う。予備校のテキストは、完全サブノートといえるもので、まとめる作業はない。いきなり覚える勉強に入れる。
こう書いてくると、覚えるためには、まずまとめるということが、必要かに思うが、これもそう単純ではない。難関国家試験の場合、予備校のテキストを使わなければ、量が多過ぎて、そのまま読むということがほとんど不可能である。大学入試はどうか。先程も言ったように、東大を受けるほどの秀才たちは、ノートにまとめる派が、多数派である。少数派であるが、教科書を読む派もいる。私はこの読む派に惹かれる。
高校受験は、もう読むである。高校受験は、塾専用教材で「読む」だけ本もある。
ただ基本的な知識は「読む」でいいとして、受験には、過去問を使うという特殊性がある。
過去問をどう使うか、ということは、ひとつの問題であり、塾というのは、この過去問を使うプロである。いやプロでなければならない、と思う。 わたしの場合は、自らまず過去問を解いていく。それで過去問を知る。さらに過去問についてわたしの解答を作る。解説もわたしの解説を作る。
過去問は、網羅的に、基本は、過去10年、難関校だと20年とか、30年に遡って解き尽くす。
中学受験と高校受験は同じである。
大学受験は、参考書を使わなければ、無理というか、過去問では、無理である。これもすでに予備校による開拓が進んでいる分野であり、市販の出版社もいい参考書を出している。つまり大学受験は、参考書勝負である。結局、「読む」勉強に特化することになる。参考書をまとめるなどというのは効率もよくないし、大学受験の参考書は、まとめるというふうにはできていない。つまりすでにまとめられている。
さて、いろいろ書いてきましたが、理科や社会ができない人というのは、勉強していない、それだけのことです。
ひたすら読む、覚える
想い出す事項を「関連」する言葉から想い出す訓練をする。
この関連する言葉を、仮に鍵と呼ぼう。すると、覚えるとは、鍵で扉を開けて、記憶箱から、取り出すことと、比喩的に表現できる。
覚えるということの、実際は、ひとつを見たら、そこからひとつを想いだす、ということである。たとえば、ノートの真ん中に線を引く、左に日本語を書いて、右に英語を書く、英語を隠して日本語を見て、英語を想い出す。これが、一番シンプルな、方法である。左側が、鍵である。鍵を見て、箱の中の物が何か当てる、対照法、つまり対照させて覚える。これはもっとも原初的な記憶のやり方である。
わたしは、中1のとき、この方法で何でもかんでも覚えた。左に国名、右に首都、左に都市、右に都市の代表的特長、理科なら、左が原因、右に結果である。とにかく工夫してやっていく。
鍵を作ること、これは記憶を引き出す鍵である。鍵は自分で作る。語呂合わせも合鍵である。ただし、この鍵、意味鍵ではない。無意味鍵である。語呂という意味だけしかない。
合鍵を作ること〜忘れたときの用心
鍵には、意味鍵と無意味鍵ごある。これについては、またいつか述べる。
結論
理科、社会は、勉強しているか、していないか、のバロメーター
数学は、才能、つまり知能に規定される。
国語は、知能もさることながら、読書を通しての的思索に左右される。
英語は、知能よりも、環境に支配される。言語は、努力によって上達する。言語は継続が命である。
ただひとり理科、社会は、それにかけた勉強時間の量に支配される。それが証拠に、真面目にコツコツ勉強する子が当たり前のように90点台をとるでしょ。理社の悪い子は、勉強そのものをしていない、ほとんど勉強しない日が、それなりにある。勉強してるというときも、宿題やってたり、課題やってたりと、本来の勉強はやってない、ということである。まあ、そういう子は頭が悪いからやらないか、頭はあっても部活か何かやっているという口実、言い訳を大義名分にする、怠け者に他ならない。
理社が、悪い子は、まず勉強していない、ということであり、勉強方法がどうのという問題ではない、ということである。
いいですか、理社というのは、暗記に時間のかかる科目です。普段から、常に理社に触れていないと、とても太刀打ちできない。何日どころか、何十日もかけなければならない科目です。人間の頭は、何日かぐらいで覚えられるようにはできていない。短期間では覚えられないようにできているのが人間の脳です。そもそもそこのところを誤解している。時間もかけないで、方法でなんとかなるなどと考えていることから、誤っている。
都立駒場とか、青山などに行ける子というのは、受験の理社ではともかく、少なくとも学校の定期試験程度の点数で、悩むことなどない。普通に90前後をとっているものである。
定期試験の理社の得点というのは、当該子どもが、勉強しているかどうか、を如実に表している、という意味で、バロメーターの役割を果たしいる。
親は、子の理社の点数を、見れば、子どもが、勉強しているかどうかが一目瞭然なのである。
これは客観的な証憑である。
中学は、最低でも1日5時間の勉強が当たり前である。1日休めば、どうなるか。5時間やっても、次の日、部活で休めば、2.5時間です。連続して休めば、1.7時間。親も当の子もわかっていない。
高校受験を舐めてはいけない。毎日継続して初めて勉強時間が実質的に担保されるのである。休む回数が、多けれは、トータルとしては、たいした勉強はしていないのである。
長年中学生を見てきての、真理である。