画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

画期的な国語読解力養成指導の発見

2022.10.20

 

 

画期的な国語読解力養成指導の発見への序章 
 最近、書架に所蔵の、特に新書を取り出して、改めて読み返すことが多い。指導開始前の空き時間に読むのが習慣になってきた。指導のある日、たいてい早めに着いて、教室の掃除など雑用を済ませてから、開始時刻までの空き時間に、読む。考えてみたら、買って斜め読みして、精読してこなかったのだなとつくづく思う。
 気になる新書はとにかく買っておいたから、たいていのものはある。今、特に関心を持って読んでいるのは、国語のアルゴリズム関連かな。買って一読して「ダメだ」と読まなかった新書を改めて取り出して読み始めた。精読してみるとわかるのだが、新しい発見をすることが多々ある。それまで放置していたことけれどようやく読む気になって、「はっ」とする発見をすることが多いので、ことさら読む。長年胸につかえたことの答えを偶然見つけたりして、これは、大変だ、とにかくこれから気になる本は改めて精読していかなければと反省しきり。
 かつて国語の方法については、いろいろと書物を読んだ。かつてセンター試験の国語の問題を実際に解いてみたことがある。選択肢の絞りにくさに、考え込まされたことを思い出す。受験国語については、作品を書いた作家、筆者の真意を推測して書くのではなく、出題者の創作した、問題製作者が本文の字句を解釈して作った問題について、出題者の期待する答えを書くことだ、ということは今では受験生ならよく知っていることであると思う。出題者は、作家の真意などどうでもいいし、そんなことを知るわけもないから、問題にもできない。出題者は、自分が、本文の字句を根拠にこうだろうと考えたことを問題にして、本文から当然にこうであろうと導き出せる問題を作るしかできない。出題者は作家本人ではないから、作家がどう考えて本文を書いたなんか知るわけもない。いやどうでもいい。
 ただ出題者にも問題創作の制約はある。本文の字句から常識的に推測できる問題、論理的に当然導かれる問題しか作れない。本文から離れることはできないのだ。
 しかし、出題者もさるものである。センター試験では、普通「適切なものを選べ」という形式をとる。5肢からの選択問題である。もちろん「適切でないものを選べ」という形式も少ないがある。「適切でないもの」は、本文との比較から比較的容易に判断できることが普通である。だから、出題者としては、どうしても「適切なもの選べ」とする形を採る。この形式は、本文と比べても答えが出ないのだ。なぜって、本文と比べてわかるような問題は意味がないからである。出題者は、本文の核となる論理、本質的主張を「解釈」して、いや換骨奪胎して、なかなか否定し得ない、そうとも言えそうだ、という、ある意味曖昧な解釈を少なくとも3肢は作る。その3肢は、いずれも本文の解釈から成り立ち得る、実に巧妙な肢である。ただやや迂遠とか、そうとも言えるのかなとか、とにかく胡散臭いのである。かつて選択肢だけ読み比べて正解肢を当てる方法論を本にした予備校講師がいたが、その講師の口癖が、「これは意味ありげな表現だ」というのがあった。「意味ありげ」な肢は正解の匂いがする、というのだろう。ただ「意味ありげ」というのは、正解にも不正解にも「意味ありげ」ということはある。どちらにしても「意味ありげ」というのは、出題者の微妙な心の動きを反映していることは確かであろうから、正解肢に結び付きやすいとは言えるであろう。

 漠とした状態はわかっていない‼️
 文脈が辿れない、だからスキーマが働かせられない状

 以下の文章は、西林克彦著「わかったつもり」から学んだものです。
※一般的にこのように、あることがらに関する、私たちの中に既に存在しているひとかたまりの知識を、認知心理学の言葉でスキーマと呼んでいます。
文脈とは、物事、情報が埋め込まれている背景、状況と定義します。したがって、その背景、状況によって続きぐあいが生じるのだと考えます。
※文章が訳がわからないのは、文脈がわからないからです。したがってスキーマの発動のしようがないからです。こうして文章を読むとき、文脈がわかると、私たちは、無意識に、自動的に、スキーマを発動して、文章の処理にあたります。だから部分間に関連がつき、わかるようになるのです。わかったとは、各部分から見れば、文脈と矛盾なく関連がつくことです。
 抽象的な話しでわかりにくかったと思いますので、少し具体的に述べてみようと思います。
 端的に、文脈とは、背景・状況のことだと思ってください。そしてあなたたちが、予め知っているある事柄に対する知識が、スキーマだと考えてください。文脈とスキーマの関係は、文脈がわからなければスキーマの発動のしようがない、という関係です。
 実例
 次の文章の文脈を読み取ってください。

 新聞の方が雑誌よりいい。街中より海岸のほうが場所しとしていい。最初は歩くより走る方がいい。何度もトライしなくてはならないだろう。ちょっとしたコツがいるが、つかむのは易しい。小さな子どもでも楽しめる。一度成功すると面倒は少ない。鳥が近づきすぎることはめったにない。ただ、雨はすぐしみ込む。多すぎる人がこれをいっせいにやると面倒が起きうる。ひとつについてかなりのスペースがいる。面倒がなければ、のどかなものである。石はアンカーがわりに使える。ゆるんでものがとれたりすると、それで終わりである。

 どうですか。何を言っているのか、わかりますか。別に難しい語はないでしょ。それでも何を言っているのか、よくわかりませんね。それではこれが「凧あげの話し」だとしたらどうですか。たちまち「何を書いているのか」わかるでしょ。ただ凧あげの話しだとしても、そこからすべてがわかるわけではない。凧の上がる原理、風の知識、揚力の知識など様々な知識が関連して全体の意味が繋がる。文章を理解するとは、まず文脈を理解することです。文脈がわかれば、スキーマの発動ができるからです。ここの例では、「凧上げの話し」ということが文脈にあたります。そこから様々なスキーマの発動が自動的になされます。凧に関する知識がスキーマです。「走る方がいい」という部分に関連がつきました。「一度成功すると」という部分と「面倒が少ない」という部分も関連がつきました。ここでは、「凧に関する知識」が、スキーマです。ある事柄に関する、私たちの中に既に存在しているひとまとまりの知識です。スキーマは、揚力によって浮かぶとか、揚力には向かい風が必要であるとか、また揚力を効果的に発揮するには、向かい風に合わせて糸を引くとか、その加減も大事だということなど、です。そういうスキーマが文章の理解を助けてくれる、のです。
 文章を読むということは、なによりも文脈が大切だということがお分かりでしょうか。そしてその文脈からあなたがそれまでに培ってきた様々なスキーマが文章の読解を助けてくれるのだということを。

 「文脈」とは、「共通」の背景・状況のことです。一文、一文は、共通の文脈によって、繋がっています。
 そして文脈がより細かく指定されると、それだけ多くのスキーマが発動されやすくなります。つまり、各部分がより具体的に推測され、それによって部分間の関係がより緊密になり、よりよく読めた感じがするのです。文脈に示唆されたスキーマを使って、わざわざ引き出されたものというのではないぐらいに、自然な感じで内容が読み取れるのです。注目すべきは、それらは読み取られることであって、書かれてあることではない。いわば意味が文脈によって引き出されるのだということです。
 文脈によって引き出されているものが文章に書かれているわけではない。わかった状態になったとき、各部分からは、文脈と矛盾なく関連がつき、文脈を介して他の部分とも矛盾なく関連がつく意味が引き出される、「各部分から引き出された意味」は、部分の記述と文脈とを繋ぐ機能を果たしている。
こうして読解とは、文脈と各記述部分との関係のことであり、どんな文脈を使っていたのか、どんな意味を各部分から引き出していたのか、です。
 文脈に何を想定するかで「わかった」のか、「わかったつもり」なのか、ということも説明できます。より細かな文脈を使うことで、わかったつもりから脱出できる、ということも知っておいてください。
 文脈にも効果のある文脈と、それほど効果のない文脈がある、わけです。効果のないものは、使ってみてだめなら、単にその文脈を放棄すればよいだけのことです。部分が読めていない
 間違ったわかったつもりの状態になると、部分が読み飛ばされるのです。だからしっかりとした意味が引き出されていないままに、全体の大雑把な文脈が間違った状態を、維持することになるのです。
 部分の読みが不充分だったり、間違ったりしているので、間違ったわかったつもりが成立する、ということです。
 私たちは、むしろ文脈を使って部分を、読む。だから、文脈を使って部分から間違った意味や漠然とした意味を引き出して、間違ったわかったつもりを維持することになる。こうして、わかったつもりになるのは、部分が読めていないから、ということがわかります。
 間違ったわかったつもりも、不充分なわかったつもりも、同じ構造です。明確な文脈が存在し、それにあわせる形で部分が漠然と読まれたり、不正確に読まれたり、読み飛ばされたりしているのです。部分が正確に読まれておらず、全体の雰囲気という魔力によって、部分からそれに適合する漠然とした意味しか引き出していないことで、ある種の整合的な状態を、作り上げている、のです。どうもしっくりこない、各部分との整合性が合わない、そういうときは、文脈を交換してみることです。そもそもの文脈を取り違えていたのではないか、そういう可能性があるからです。
 整合性は、選択肢問題の基準となる。
 センター試験の国語の問題は、実は、この整合性基準でしか解けない。センター試験において、正しいものを選べという問題ほど難しいものはない。逆に、「適当でないものを選べ」、なら適性でない肢と本文との整合性を調べればいいだけだから楽である。なぜ「正しいものを選べ」は難しいのか。それは、正しい肢は、本文との整合性がチェックできないからである。センター試験の国語の選択肢問題では、正しい肢は、本文に書いていないことを正解としているからである。それは本文から解釈できることを答えとしているからである。出題者の解釈であるから、いくらでも解釈は可能だからである。例えば、5肢のうち2肢が明らかに本文と整合性がないとしても、残り3肢については、すべて本文の解釈としては成り立つのである。それではなぜ唯一の解釈だけが正しいとされるのであろうか。その答えは、「常識」というしかない。いや「妥当性」と言ってもいいかもしれない。これを国語感覚というならそうなのであろう。
 センター試験の問題は、適当でない肢を見つけるのは、本文との整合性を考えればいいという基準があるから、少なくとも解答方針はあるが、適当な肢はどれか、に答えるのは至難である。それは、適正な肢というものが、本文の解釈から成り立ちうる肢を3肢ほど用意して、その中から選べということだからである。つまり、その3肢はいずれも本文の解釈として成り立つからである。だから迷うのは当たり前なのである。出題者の正しいとする解釈を1つ選べというから難しい。解釈として成り立つ肢が3つあり、その中から1つ選べというのである。文脈と出題者の肢の価値観との整合性を考えろとでもいうのか。やはりここは最も「常識的」な判断が求められていると考えるほかない。
 国語、特に、センター試験レベルの国語の問題、それは全て選択肢問題であるが、例えば、5肢から1肢「正しいと思われるものを選べ」という場合、その正しいと思われる肢は、おそらく3肢残ることであろう。その余の2肢については、本文との整合性がないことから消去される。この場合、多くの受験生が勘違いしているのが、正解肢は、本文と照らし合わせれば、その整合性の故に簡単に見つかると考えていることだ。しかし、実際に解いてみてすぐわかることであろう。3肢すべてについて本文からは何もわからないということが。それは当然である。3肢とも、ほかならない、本文の解釈から導かれることを書いているからである。さらにその3肢とも解釈としては成り立ちうる内容だからである。だから、私たちは、3肢それぞれについて、その解釈の妥当性、いや常識性を検証しなければならない。解釈として迂遠なもの、飛躍したもの、つまり、常識からは離れているもの、さらに言えば、「あたりまえのこと」とされるものを選ばなけれならないのだ。そうなるとあなたたちは、常日頃何かを読むとき、考えるとき、そもそもの「あたりまえ」とは何かを考える癖をつけておく必要がある。というか、「あたりまえ」とは、なにか、を考えておく必要がある。センター試験の国語の過去問を解いてみて、そこから「あたりまえ」を学ぶというのも一つの手であろう。
 こうして、国語の勉強の方法、というか、アルゴリズムのひとつを示したことになろうか。
 

 なぜこのような論稿を書いたのか。それは私が今現在、竹の会の国語指導のアルゴリズムを完成させることに大きな関心を持っているからです。わたしは、平成22年頃に算数のアルゴリズムとして、ミクロマクロ法を完成させました。それから竹の会の算数は独自の進化を遂げて今に至ります。国語に関しては、これまでも私なりに様々なアルゴリズムを試行錯誤してまいりましたが、特に、昨年高校入試指導で、筑駒、開成の国語指導に携わり、そのアルゴリズムについて、考える日々が続いたことで、さらには、近年の小6が適性問題の文章を正確に読み取れていないという状況を目の当たりにし、これは竹の会でも早急に国語のアルゴリズムを体系化しなければならないと、考えてまいりました。そのせいか、最近は国語読解関連の書籍を精読するようになりました。こらからわたしはさらにそうした文献の精読を重ねて、国語アルゴリズムを体系化していきたいと考えておのます。

 そのヒントとなるのが、「文脈」と「スキーマ」です。おそらく子どもたちは、文脈を羅針盤として文章を読んではいないのではないか。もし何らかの予見を、先入観を持って読んでいるとしても、それは文脈というよりも、自らの大雑把な思い込みから各部分を雑に読み飛ばしているのではないか、そんな気がします。精読というのは、自らの想定した文脈と各部分の整合性がつくことです。子どもたちはおそらく文章を読むとき、漠然とした思い込み、先入観を文脈と置き換えて読んでいるに違いないと思うのです。

 こうして私は文章を精読すること、そのときに想定する文脈がひとつの指導の鍵になるのであろうと考えています。スキーマとは、やはり広い語彙力、教養、知恵がその要素としてある。だから子どもたちに文脈による読解を指導するにしても、それと並行して語彙を鍛え、教養をつけるということがなによりも大切だと考えています。

 今はこれからの竹の会の国語指導について、未だ研究途上ではありますが、近い日に、これが竹の会の読解法だというものを提示できればと切に思っています。 

ページトップへ