2022.10.25
竹の会通信2022.10.25
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石原千秋著「中学入試国語のルール」のこと
この人は、受験国語の本を、何冊も書いている。成城大学を出て、成城大学の先生になって、今は、早稲田大学の先生になっている。専門は、漱石とある。漱石関連の論文を多く書かれている。お子さんを大手塾に入れて、自らも二人三脚で中学受験を実践して来られて、その体験の実況中継のような「秘伝中学入試国語読解法」なる本を書いているが、そういう国語関連の本は私の所蔵するだけでも数冊ある。私は気になる本はとにかく買っておくので、書架の文献探索ばかりやっている。表題の「中学入試国語のルール」は、2008年の出版だから、もうかなり古い。
石原は、その中で独自校都立に入るのと中学受験で同レベルの私立に入るのとでは断然後者が楽だとしている。石原は言う、「立の上位校を目指すには、塾に通って猛勉強をしなければなりません。それならば、中学受験の方が選択肢が多く安全と言えます。」と。
この本が出されたのは、2008年のことですから、まだ公立中高一貫校がスタートしたばかりの頃です。石原は、中学受験をやれるのは、比較的経済的にゆとりのある家庭なのだ、ということをスルーしています。公立中高一貫校がスタートすると、堰を切ったように、それまで経済的な理由で、男の子を優先させる家庭が一般だったこともあり、女子が受検になだれ込んだ。親もカネのかからない公立ならいいかということで、その方向に動き出した。しかし、それまで塾代を惜しんできたこともあり、動き出すのは遅い。小6になる前後が一番多い。公立中高一貫校も20年近くなると、世の中の事情も変わって、今は、私立受験の子たちがそういう公立しかないと言う子たちを押し出す状況になっている。
特に、女子には、上位都立に失敗すると、国立大学狙いの高校がない、という時代になった。豊島岡女子学園ぐらいなものだ。女子は早期の囲い込みで、この少子化を乗り切るために、中学受験でできる子を早めに刈り取っておく、というご時世だ。
石原は、独自校とそれ以外の都立高校の格差を指摘する。独自以外では、駒場と小山台が同レベルの高校だとされているが、確かに東大合格数で切ると、もはや独自校以外の都立は視野にはは入らない。。
石原は、都立高校受験のデメリットとして、「忌まわしい内申制度」をあげる。つまり、「内申が公正でないことは、多くの親は知っている」と言う。ただ、私の実感は、定期テストの得点が低ければ内申が悪いのも仕方ないことだからそれで低いのなら理解できる。しかし、数学90点取っても3というような定期テストで高得点を取っているのに3をつけられては、生徒のやる気は完全に削がれるし、内申そのものの不信、それは教師への不信として、高校入試制度そのものの絶望感を見て見ぬ振りする中学そのものの在り方が問われる。そんなことしているから公立よりも私立ということになるのだ。優秀な子は中学でみな私立に流れるのは公立の臭いものには蓋をする体質からだろ。よく言われるのは、内申が男子に辛く、女子に甘いことである。弊害の最たるものは、内申点がほしくて部活動に励むばかばかしさだ。「目の輝き」に点をつけられたのでは、他人の目を伺う、狡猾な精神を教育しているようなものだ。内申で人間に点をつけるという悪制度が公立を腐らせている。石原は、都立高校の弊害として、独自校に受験指導のスペシャリストを集中させ、学習困難校には、生徒指導のスペシャリストを担当させるため、都立中堅には、抜け殻のような教師ばかりが集まり、中堅校の生徒こそ一番の被害者だいう。
石原は、高校受験塾の御三家として、トップクラスの私立進学高校に強いサピックス、早慶の附属高校に強い早稲アカ、公立上位校に強い市進学院をあげている。
石原には、悪いが、こと高校受験に関しては、私は、大手を見切っている。早稲アカが、上位都立に強くないのは、本当だろう。竹の会の27年戸山合格者は、中野の中学だったが、同級生の大半が早稲アカだったらしい。しかし、蓋を開けてみると、最高の都立は、竹の会の子の受かった戸山だけで、すべてが戸山より下、しかもずっと下の都立に受かったか、落ちたかだった。戸山志望の生徒は5人いて竹の会の1人以外は全員落ちた。うち一人は中1から戸山一筋に頑張ってきたと聞く。
サピックスは、難関私立に強いらしいが、去年竹の会から筑駒、開成、渋幕(特別特待生)、城北(時間が余って困ったらしい)に合格した生徒は、駿台模試4回受けてすべて1位か、3位以内だった。何が強いのか、私にはさっぱりわからないが、石原は、風聞に近い情報を書いただけで、私のように実際に高校受験を指導する者とは、考えも意見も違う。
それから学芸大学附属中学について、ちくりと、制度的に約半数の生徒が高校に進学できずに放り出され、他方で優秀な生徒を百人入れて、つまり、バカを放り出して、入れ替えしていると、批判しているが、それはその通りなのだろうと思う。国立が、高校入試をやめないのは、青田刈りの私立とは事情が異なるからである。国立は、高校受験でも優秀な子が集まるからである。それで中学受験で紛れ込んだバカと入れ替える絶好の機会として高校入試を利用しているのだ。それで優秀な生徒が結果を出せばそれは学校の実績となる。教員養成の附属高校のやることか、ということである。
私立女子の場合、中学で優秀な子を青田刈りしておかないと高校からでは、取れない状況が出来上がっている。他の私立がみなそうだから、鷹揚に高校入試で集めようとしてもカスばかりということになりかねない。要するに、桜蔭や女子学院が特にいいというのではなく、そこに優秀な生徒が集まるから結果が出ている、それだけのことだけど、世の中の親はそうは考えない。学校がいいからいいところに行けると考えるのだ。まあ、確かに、進学のいいところは、教師の質もいいから、それはまぁいい循環にある学校ということではある。
先程も述べたが、その結果、高校受験で進学型のいいところというのは、女子では、豊島岡女子学園しかない。
石原は、中学受験の国語について、次の4つのポイントをあげる。
①辞書に載っているよあな言葉の意味やその使い方を、知っていること
② 前後の文脈をきちんと読めること
③文章全体として何を言いたいのかを理解すること
④現代社会が私たちに何を求めているのか(世間の常識)を知っていること
石原は、教室で学ぶのは、③までだ、とする。
ところで、石原のあげる「文脈」とは、どのような意味あいで使われているのだろうか。石原は、それはあたりまえの概念と考えたのか、定義もない。
おそらく普通は、追い求めている意味の流れぐらいにあたりまえのように考えているのだろう。前の文脈と後の文脈と分けているところをみると、前の意味の流れ、後の意味の流れと考えてるのだろう。古典的名著高田瑞穂著「新釈現代文」も読むときに、「たった一つのこと」を追求する、そのたった一つのことが何かは明かさない、本を読み終わったとき、それがわかっていると言いたいのだろう、そういうスタンスで書かれている。それが、何だったのか、正直覚えていない、それほど曖昧なものだったように思う。今思えばもしかしたら文脈のことだったのか、と思ったりもする。
文脈と言っても、とにかく漠としてわからない、曖昧なもの、文の中で意味を取りながら、追い求めている何か、そのようなものとして、考えられていた、そういうことなのではないか。
こうなるとますます国語というのはわけのわからない科目になる。そもそも文脈の定義を蔑ろにしながら国語読解など語れるものか。
文脈とは、そんな正体の知れないものではない。川を流れるのが水であるように、血管を流れるのが血液であるように、文章の中を脈々と流れるもの、それが文脈である。言葉はさながら川、血管の如くである。言葉の珠数を伝って流れるのは、言葉から次の言葉へと継がれる意味の連鎖であり、言葉の川を流れるのは、各々の言葉から発せられる意味を繋いでいくもの、である。言葉は一瞬にして意味に変換され前の言葉を受け継いで意味を繋ぐ。私たちは、意味をつなぎながら、言葉の川を流れてゆく。言葉が一つの意味を発すれば、流れる意味は、新たな意味を融合させて、まるで意味だるまのように言葉の絨毯を転がりながら、次第に一塊の意味の生命体を形成していく。
さて、こうして、文脈の理解には、2説がある、と整理したほうがいい。石原その他の大多数の世論は、大辞林説である。
そして、西村説は、「背景・状況」説である。私は西村説が国語読解には役に立つと思っている。これまで国語をわからなくしたのは、文脈を曖昧にしてきた石原説にある、と考えるからである。
西村があげる次の文章は、石原説ではどうにもならない。たとえ意味を繋いだとしても何を言っているのかわからない。
新聞の方が雑誌よりいい。街中より海岸のほうが場所しとしていい。最初は歩くより走る方がいい。何度もトライしなくてはならないだろう。ちょっとしたコツがいるが、つかむのは易しい。小さな子どもでも楽しめる。一度成功すると面倒は少ない。鳥が近づきすぎることはめったにない。ただ、雨はすぐしみ込む。多すぎる人がこれをいっせいにやると面倒が起きうる。ひとつについてかなりのスペースがいる。面倒がなければ、のどかなものである。石はアンカーがわりに使える。ゆるんでものがとれたりすると、それで終わりである。
上の文が何を言っているのか、わかりますか。
石原説では、文脈は取れても、何を言っているのかさっぱりわからない。しかし、この文の状況が「凧揚げの話し」と言われると、途端に、文章の言葉の一つ一つが俄然生きてくる、意味を放つことがわかるでしょ。背景説、状況説です。私は、実例をあげて西村説の有用性を語っているのです。そこから読解で悩む人たちへと一つの光明を見えてくると思うのです。
※文脈
大辞林の定義
文中の中での文と文との続きぐあい、比喩的に、筋道、背景などの意にも使う。
私のコメント
石原説は、大辞林の前段の意味にとらえるものです。比喩は、続くというのは、前の言葉と後ろの言葉とが、同じ背景、状況を共有しているからです。
西村克彦の定義
文脈とは、物事、情報が埋め込まれている背景、状況。これは大辞林の後段を定義したものです。
石原は、 漱石の研究者というが、専門は、受験国語かと誤解させるほどその手の本ばかり書いている。 私は、この人の書いた受験国語の本をおそらく全て持っていて、ただし、精読したのは、そのうちの2冊だけだが、今年、小説が苦手という開成を受験した生徒に「読んでみるか」、と渡してはみたが、結局、開成対策として打った手は私の思案の末の別の手だった。どうしても究極の手はそういうものは信用しきれず、自分の納得した手となる。この人の本から学んだことはもちろんある。この人の書いた「未来形の読書術」という本からはかなり示唆に富む話しを手に入れた。正確には、この人が引用した哲学者の鷲田清一(わしだきよかず)の文章なのだが、この人はなかなかそういう関連の読書量はさすがで、自分で探す手間が省けるのでこういう人の本を読むというのがわたしの本音だ。
石原のあげる④について
石原は、常識とは、国語読解では、道徳だと言う。特に、中学受験の国語は、道徳的な正しさで、選択肢問題に対応すれば正解となる、こう主張している。
西村は、選択肢問題において、本文からはいずれも成り立ち得る解釈肢が3つほどあり、そのどれが正解かは、消去法のルールにしたがい、一番常識から離れているものから消していき、残った肢を選ぶと述べている。
西村も、最後は常識論である。ただ石原の方が明確である。常識とは何かについてついはっきりと道徳と言い切っているからである。
よく英文を読んでいると、キィーワードとなるWordが、段落が変わると言い換えられていくことに気づく。これは原仙作の「英文標準問題精講」を勉強すればわかる。同じ言葉を最後まで使わないのが英語の名文である。作文を書くとき同じ言葉を連呼する子どもたちの作文には辟易(へきえき)とするが、作文でも同じ言葉は使わない、必ず言い換えた同義の異語を使うようにすればいい文になるということは知っておいた方がいい。英語の話しに戻るが、この英語の同義語を使う手法は、文脈を西村説のように考えなければ、意味取りが難しい。何の話しかわかっていれば、同義語による言い換えがいくら多用されても動じることもないからである。
鷲田清一から学ぶ「ふつう」論
鷲田清一著「ちぐはぐな身体」
じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。…ぼくたはほかならぬこのぼくの身体のことだと言いうるほどに、ぼくはまちがいなくぼくの身体に密着している。ところが、よく考えてみると、ぼくがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なものだ。身体の全表面のうちでじぶんで見える部分というのは、ごく限られている。さっきもふれたことだけれど、だれまじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじかに見たことがない。それどころか、ましてや自分の顔は、終生見ることができない。ところからその顔には、じぶんではコントロール不可能なじぶんの感情の揺れが露出してしまう。なんとも無防備なのだ。
「ふつう」とはどんなものなのか、まずあたりまえのふつうを書いてみる。そしてそんなの全然ふつうなんかじゃないじゃないか、とふつうを覆す、これが「ふつう」論です。
そしてこれが読解の対象となる評論なんです。
かつて司法試験の論文式試験で、若年合格者が、「あたりまえのことを書いてくればいいんだ。」というようなことをエール出版の合格体験記に書いておりましたが、その合格者の考えていた「あたりまえ」とはどんなイメージだったのか、なとよく考えます。おそらくマイナーな知識とか、マニアックな学説とか、稀有な論点とか、そういうものは要らない、ただ、最低限の、定義、通説、判例だけでいい、という主旨なのかな、と思います。難関国家試験(当時はそうだった。今は合格者数も4倍に増え、法科大学院さえ行けば道筋はできる)だからと自らも何の根拠もなく試験のレベルはこうあるべきだと徒に高みに上げている人ばかりだったから、「あたりまえ」という意見が新鮮だったのだと思います。
読解に熟達するには、常識に通暁(つうぎょう)することだとして、その常識とは、石原の言うように道徳的な判断だ、とすれば、21世紀になってもまだ江戸期や明治期の儒教精神を拭い去れていない私立中学ばかりなのかと暗澹(あんたん)とするものがありますが、高校受験はどうなのか、大学受験はどうなのか、と考えてしまう。
だから、常識で答える、と言っても実は何も言ったことにはならない。だから、常識は、道徳だと言ってしまえば、これほど楽なことはない。
常識、ふつうとは、時代によって変わるものである。ある時の常識は、何年か経ったらもう常識ではなくなっているのがふつうである。だからわたしたちは、いつも「ふつう」とは何か、を問わなければならない。
あることについての「ふつう」とは、何か、を常に吟味しなければならない。
例えば、二酸化炭素が地球の温暖化の原因の一つ、しかも最も有力な原因である、とする主張が現代の常識とされている。それがふつうの考え方である、とするのが世界的潮流である。わたしたちは、そのことの証拠として、様々な自然現象の異常性をニュースやネットなどで知り、さらには超大型台風に見舞われることで実感もする。しかし、それでも二酸化炭素犯人説には、異論を唱える人たちがいる。養老孟司先生もある雑誌の特集で、そんなものはないじゃないですか、と言われている。温暖化対策で莫大な儲けを出している人たちがいることは、確かです。そういう人たちにとっては温暖化は飯のタネです。わたしたちは、「ふつう」をマスコミや政府、御用学者などによって植え付けられていることはないのか、疑ってみるのも「ふつう」をヴァージョン・アップするには、必要なことです。
「ふつう」とは、何か、様々な問題についての「ふつう」を、「あたりまえ」を検証し続けること、が求められる。
「ふつう」が、「あたりまえ」が、今の時代のそれなのか、常に問い続けなければならない。
「ふつう」とは、儒教の道徳から見てのふつうなのか、今の若者の共通の認識レベルをふつうとしているのか、大学レベルの教養のある大人の意識から見たふつうなのか、これとても大学はピンからキリまであるから、どの程度の大学を想定したのか、とにかくふつうほど内容の定まらない概念はないのである。だからふつうと言い、あたりまえと言っても、何も具体的な、いや確定的な基準を提示したことにはならない。
そういうことを踏まえて、当面の問題となっている対象について、それこそ個々に「ふつう」の内容を設定していかなければならないのだと思う。
子どもたちに、当面の、受験という対象に限定しての「ふつう」の判断の内容を提示してあげなければ子どもたちには解決のしようがない。