2020.05.16
神の指導を意識する日々
コロナが社会を強制リセットした。コロナがもたらした休息、久しぶりに心に余裕ができたのか、これからのことをいろいろと考えるようになった。思考というのは、時間的余裕のある時ほどいい考えをもたらし、プラス思考を可能にする。自分の思考とちょうど波長のいい時間の進みを手にして、あのいい時のかつての感覚が、蘇ってきた。コロナ禍がわたしには孤独に考える時間を与えてくれました。
わたしの場合、指導、その後のボーッとした時間というのが次のアイデアを生むためには是非必要でした、そのふと緊張の解けた安らぎの時間がわたしにさまざまな閃きを与えてくれました。
コロナのもたらした、半ば強制的なお休みが、かつての竹の会の、レジュメの開発に明け暮れた日々を思い出させてくれました。コロナの与えてくれたボーナス休みは、これまでの多くの竹の会のレジュメを見直す機会も与えてくれました。
コロナで休んだ子たちの学力の低下はわたしの想定を遥かに超えているのではないか。子どもというのは、放任していたら、自主性に任せていたら、使いものにならなくなる。あるお母さんの表現を借りれば「パーになる」。これは確かにわたしの経験値としてある。継続は力なりというが、指導も継続が命である。子どもというのは、方向を定められない本質がある。放っておけば方向をコントロールできない、つまり操舵機のないバカになるし、甘やかせたら好きなところにハンドルを向けてしまう。つまり子どもに人生のハンドルを持たせてはならない。親が代わりに運転するのではない。親は方向を定めてやるのである。車と違って、子どもも人生の運転は当然しなければならない。ゲームに耽溺した子はハンドルそのものを握らない。つまり、ハンドルを放り出す。
塾というのは、あ、いや竹の会は、子どもに方向性を与えている。勉強するということは、いや竹の会の指導を受けるということは、そういうことだ、と思っている。
竹の会の、わたしの指導に親御さんたちが、どういう思いを抱いているのかはわかりません。ただ少なくともわかるのは、子どもたちの精気に満ちた勉強する意思、意欲です。竹の会の子どもたちは指導中はほんとうに熱心に勉強に取り組んでいる。一人としてサボるものはいない。いや誰かがスマホいじってたらすぐ気がついた子が注進してくる。「先生、中学生がスマホいじってます」という具合。指導時間中は休みなく、わたしの指示に取り組んでいる。勉強するために塾にきているということが明瞭に表れている。その点に迷いがない。そのことが気持ちのいいほど見て取れる。このような子どもたちの姿を見ていると親御さんの竹の会への思いも推測できるのではないか。
ずっと失望のままに推移を見てきた子に嬉しい変化が表れるというのも、子どもの勉強に対する気持ちにかかわる。兆しが見えてきたときはもちろん内心ほっとする。これまでを思い返せば、勉強に強い意思、気迫が見られなかった子については、正直指導についての敗北感があり、失意のままに帰路を急ぐことはよくあった。
わたしは、ここ近年これまでになく、丁寧な指導を心がけています。一人一人慈しむように、丁寧に指導しています。一球入魂といいますが、今のわたしはそうだと思います。
子どもたちに変化が目に見える形で表れています。わたしの指導を受けた子たちがメキメキと頭角を表し、何かを掴みかけている、そういう思いがわたしにまた活力を与えてくれます。
今年の受検で、わたしは一つのことを確信しました。何をやればいいのか、もう迷わない。というかようやく抜け出した病気からの解放感がわたしにまたあの、竹の会を始めた、あの時の燃えるような、なにかに挑戦する、怖れを知らない、絶対に負けないという強い意思とほとばしる血のたぎるような情熱、そうあの闘争心を呼び起こしたのです。
かつてのわたしは、地頭のない子は最初から諦めて指導はしないと決めていました。これは強ち間違いではない。今は入会試験があるからかなり選別しているはずであったが、入会試験に合格してもたまに、アレっという子が紛れ込む。
また仮入会として六か月を目安にとにかく基礎学力だけでもつけてあげましょうという約束で預かる子もたまにいる。入会試験に落ちて落胆している、熱心な親御さんを見ていると、救いの手を差し伸べてしまうからだ。弱いですね。
指導は休んだら終わりですね。一か月の休みはほんとうに子どもをパーにしますね。ましてや二か月の休みはもうだめですね。
竹の会の規約が一か月の休みを退塾としているのも、理由のあることでした。
わたしの指導を休んだことの、負の落差は想定の遥か上をいっているに違いない。
それほど竹の会の指導とは、凄いことなのだと思う。
コロナはこれまでの政治、社会の泡をたちまちのうちに無にしてしまい、世の中のありようを一変させてしまいました。いやしまうでしょう。
コロナのおかげでわたしは指導の神髄に触れられたのだと思います。
本当に、指導というものを、突き詰めて、真摯に神の指導を意識して子どもを導くようになったと思います。
わたしのできる最高の説明を子どもに、心に語りかけるように、した。
わたしの指導というのは、ほんとうに神業なのかなとよく思います。
神の指導は、わたしの理想だった。子どもがわかったというのではなくて、次に、見せてくれた、わたしの書いて欲しかった答案こそがわたしの確かな根拠になる。わたしの思いが通じたのか、きっとそうなのだ、「よく、できたね」、この流れだ。
わたしは、滅多に褒めないと親御さんに言われる。「先生、もっと褒めてあげてください。うちの子は先生に褒められると、嬉しくて仕方ないのです」、親御さんからメールで叱られる。
コロナで塾は潰れるのかな、ふとそう思いました。それならもういいかな、潮時かな、とも思いました。だったら、最後の指導になるのか、だったら悔いのないように、心に残る指導をして終わりたい、そう思いました。
そのおかげか、指導の神を見ました。子どもの心を澄んだ心で見ることができました。
わたしにはある確信があります。それは算数を、算数力を、なんとしても高度な算数の思考を子どもたちにものにしてもらいたい、ということです。それが、とりもなおさず「考える」力になる、突破力になる。
わたしはもう算数のできない子を受検生として送り出したくない。! 最初から、負けるとわかっている試合には出ても仕方ない。
だからわたしはなんとしても算数を追求する、算数の指導、それはとりもなおさず思考というものを子どもたちの中に根付かせること、子どもたちが、問題に取り組み、考え、悩み、思考の枠組みというものが重要なのだと悟り、その枠組みを使って考えるという、いわば思考の技術を身につけること、と取り組まなければならない。私たち指導者の役割、役目は、したがって、子どもたちに様々な思考の枠組みを与えること、それは視覚化されたモデルとして与えることであると考える。
わたしが発明した思考モデルの一つ、ミクロマクロ思考法はまさにそれである。もともとはBS(バランスシート)にヒントを得た。一つのものを2つの視点で見る。これは様々な思考モデルの開発に有効な手法だと考えている。今、研究しているのは、国語、特に読解法、さらに作文の手法に、このBS手法を取り入れることである。読解については、すでにかなりの分析が進んでおり、抽象と具象のBS的分析、具体の内訳、例えば、比喩、例示、体験など、読解貸借対照表の作成、など考えることは多い。参考になるのは、野矢茂樹の著書。最近惹きつけられて読む。わたしのモデル作りの参考になることばかり。
対照表というのは、思考の方法としてもそうだが、記憶にも有効である。理科や社会では、対比して理解する、記憶するということが、かなり有効である。
指導、神の指導をめざし、神の指導に近づくように操舵して、思考宇宙の羅針盤は常に神の指導に方向を固定してきた。
竹の会はすでにただの塾とは全く違う、一人の思考する人間を生み出す、塾ではない塾として、固有の思考人間生産システム所としてあるのだと思う。
31年桜修館合格者の使ったレジュメ 故郷別府全景 レジュメの表紙は別府全景