2022.11.22
悪魔は細部に宿る
悪魔は細部に宿る ( The devil is in the details) とは、細部に隠された罠や不可解な要素を暗示する英語の格言である。この言葉は、以前から使われていた「神は細部に宿る ( God is in the details) 」に由来しており、アビ・ヴァールブック(ドイツの美術史家)の言葉とされているが、実際は、作者不詳である。
去年のことでした。「伸び悩む」小6の親御さんから、行き詰まった状況、頑張っている子どもの姿に心を痛めている、そういう趣旨のメールをいただきました。
小6になって、訪れる現実、特に、最近の顕著な傾向、模試の結果が振るわない、すなわち伸び悩む小6という現実を見てきました。わたしはこれを”小6ショック”と名付けました。ここ2年の傾向である。考えられるのは、新型コロナの感染拡大しかない。小5時の過ごし方が、原因となっていることは間違いない。かつてのように小5時代に勉強に専念する家庭がなくなった。「まだ小5だから」そこまで勉強はしない、という論理を取る家庭が公然と増えてきた。わたしは早くからそのことは懸念していた。いや想定していた。今年卒業した小6の小5の頃を振り返って見てほしい。夏休み、オリンピック開催の夏、竹の会の用意した夏期指導さえも不参加の子たちが多々いた。普段の勉強も感染拡大が影響してか、わたしには何か淡々としたこなし仕事をやっているような嫌な感じがしていた。これは新型コロナが、子どもたちの勉強意欲を減殺し、それでも大人たちがそこを突かない対応をしていることを窺わせた。要するに、不勉強に鷹揚になっていたのだ。感染から子どもを守ることが最優先とされ、勉強の消極性については、問題にしない姿勢が垣間見えた。私はそういう親の姿勢を見逃さなかった。子どもは大ぴらに新型コロナを理由に勉強をサボタージュする。大義があるから怖くない。わたしは、こんなに消極的で、やり過ごしていいのか、親たちの行動姿勢を怪訝な思いで眺めてきた。「参加しない」、そういうことを普通に言う親たち。小5の時に手をかけない。必要最低限で「済ます」。そのことがいずれもたらすであろうカタストロフィにわたしは本当にそれでいいのか、わかっているのか、落胆と失望の日々を過ごした。何も相談されないままに親たちは決めていく。勉強しない選択があたりまえのようになされる。小6になって、現実を悟るしかないのか。絶望的な運命論が支配する。しかし、親がそれでいいと言うのならどうしようもない。そうはならないことを祈ったが、小5のときの選択がもたらす結果がやがて示される。何かが欠落した子たち、その恐ろしさは模試の結果に如実に現れる。いきなり失速である。想定された失速ではある。この失速は最早再起動することはない失速だった。この失速はすでに2,3年前当たりから実は出現していた。いずれる小5のときの手抜きが原因としか思えない。小5のときに手をかけない子たちの失速は当然の帰結であった。小5のときに、手をかけた子が、小6で開花するのだ。大手から来た子たちは、小5の大半を大手で過ごし、来し方の成果などは竹の会は預かり知らぬ子たちであった。それまでにどういう勉強をしてきたのか、それは、ブラックボックスのままである。計算未熟、割合未熟はすぐに、判明した。これだと、開花の時期に開花しない恐れは十分にあった。いわゆる「ため」である。小5の間に十分に「ため」がないと小6になって伸びない。「ため」が反撥力となる、瞬発力となる。オリンピックの年、夏に参加しないという選択をした親の判断が私にはわからない。なぜ?
神は細部に宿る、という。手をかける、というのは、細部にまで丁寧に精魂込めて指導に心を砕くことをいう。一番手をかけなければならないとき、そういうときがある。ここは時間をかけてほしい、そういうかけどころでいとも簡単に手を抜く、後々、伸び悩むことは目に見えている。そしてそのときにはもはやどうにもならない、そこが親にはわかってない。