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🎶そこまではやらなくてもいい、という考えの誤解とそのやがてもたらされる大伽藍

2023.08.22

🎶そこまではやらなくてもいい、という考えの誤解とそのやがてもたらされるカタストロフィー
 「わたしは都立共通校しか受けないから」と、勉強のレベル、範囲を限定する生徒は、落ちパターンの生徒

 カタストロフィーとは、要するに、「破滅的状況」のことです。昔からそういう生徒はいました。ただ2種類あって、頭はいいのに自らやるべき範囲を限定する子と頭はよくないから限定もしかたないという子です。実は前者が問題なわけです。範囲を限定して所期の目的を達成したのか、ということです。たいていは所期の志望校さえも落ちてしまう結果が待っていました。
 そもそもそのような線引きができるのか。確かに、理科や社会ではそういう線引きは可能かもしれない。筑駒の理科・社会と都立の理科・社会では自ずとレベルが異なるというのはわかります。
 しかし、英語、数学、国語は、難しい問題、易しい問題はあっても、知識のように、ここからここまでと線引きはできない。
 何故か。それは、数学にしても、英語にしても、国語でも、難易で線引きができない性質の科目だからである。例えば、数学なら、2次関数を易しい問題と難しい問題に線引きはできるかもしれない。しかし、易しい問題については、より難易度の高い問題を練習することによって、深い実力となる性質のものである。易しい問題に限ってやればそれは実力を落とす所為にほかならない。難易度の高い問題をやることによって平易な問題をさらりと流すこと、その意味で、鳥瞰することもできるようになる。わたしは、ここまでしかやらない、ということが、目先しか見ていない、如何にも短絡的な見方であるか、お分かりであろうか。
 このことは、英語の場合、さらに区切ることが、かえって理解を妨げるという形において、顕現することになるであろう。
 都立高校入試の英語は、不完全な英語である。単に、語彙の問題だけではない。英語5文型のうち、第5型式だけ抜けた英語は、魔の抜けた長文になることは否めない。また、標準的な英文で用いられる相関語句、関係詞、分詞構文などを抜いた、ある意味間の抜けた英文を読むことでもたらされる英語力は高校では通用しない代物である。つまり、英語は、範囲を線引きすることで、かえって英語力を低下させることになるのだ。
 このことは、同じ語学である国語についても、言えることである。そもそも読解力というのは、より難度の高い文章を読んでこそその力を引き出すのであり、そこそこの問題ばかりやっていて問題葛藤もない練習でどんな力がつけられるというのか。
 レベルをここまでと線を引くことの致命的な欠陥は、いつも問題を見て線引きすること、その際、難しい、難解そうな、手のかかりそうな問題は、範囲外として、外していくことになる、そうなると、葛藤の渦中に巻き込まれるという意味での考える機会というものを自らドンドン切り捨てていくことになる。つまり、いつも解けそうな問題ばかりを選んでやることになり、一切の進歩はない。
 勉強の本質
 学問は、体系をなすものである。また、より深めるところから、その体系の位置、意味がわかる仕組みになっている。
 本来、ここまでと線を引くことができないものである。学習指導要領は、中学と高校の履修内容を線引きしているが、本来できないものに線を引くから、おかしなことになる。例えば、第5文型なし、分詞構文なしの長文など現実にはあり得ないわけで、また重要な構文抜きの長文練習をして何になるのか。たとえそれらが中学の範囲を逸脱しているとしても、本来の英文でないもので勉強することの意義がわからない。
 英語というのは、現実に存在する、作家の英文、新聞の英文、論文の英文を読みこなすために、勉強するのではなかったのか。この世に存在しない、作為的な、平易な表現だけの英文を勉強することの意味はない。
 大は小を兼ねる、とは、学問の本質を示すものである。すなわち高校程度の英語力は当然に中学、高校入試の英語を凌駕する、ということである。より高次の位置から眺めることが、勉強の極意なのである。低いレベルの箱に籠もって外に一切出ないのでは、不完全な、未熟な理解しか得られないままに衰弱していくしかない。より深い意味を知ることなく表層の知識で、物事を判断する、それが、低い次元で勉強した者の末路である。
 開成、筑駒トップ合格を可能にした高次元学習法
 そもそも中学英語だけで高校入試を済ませようとすることが無理な相談だったのである。

 難関私立合格が売りの大手進学塾の中味はどうなのか。

 大手のやっていること、それは過去問を材料にして、様々な教材を作り、教材と講座をセットにして売ること、つまり商売することです。過去に出題された難問を分類整理して、再編集して、問題集化して、売る、ほとんどはこれに尽きるのかと思う。分類・編集というのは大変な時間と費用のかかることで、勉強するものには効率のいい教材を提供することになるだろう。しかし、実は、これは両刃の剣である。過去問の域を出ないのだ。どんなにがんばっても過去問という枠からは抜けられない。これが致命的なのは主として英語と国語である。英語も国語も過去問が対象とする範囲がすべてではないからである。数学については、過去問ょやることの意味は大きい。入試の数学は、高校でやる数学と乖離した特殊な難解の世界にある。例えば、2次関数なら頂点は原点にしかない。三平方の定理は円や立体と絡めたり、相似を絡めたりと、中学数学の範囲内で特殊化してしまっている。本来なら三角比や2次関数も頂点は自由に座標上に移動させたいところである。だから高校入試数学だけは過去問をやって特殊な事例を練習する意味がある。高校数学やってなんとかなるのではない。もちろん確率や整数、代数論は高校入試でも役に立つ。
 大手進学塾は、過去問を基に様々な問題集、テキストを作り、特別、オプション講座、日曜特訓、土曜特訓などとテキストとマッチングさせて、商売する。
 開成、筑駒をめざす天才諸君は、こうした講座は漏らさず受けることだろう。天才諸君は、同じ講座を同じ教材を使った、同じ講師による授業を受けることになる。さて、そうなるとこの天才諸君たちの差別化はどうやってもたらされるのか。まったく同じ環境にいてどう差別化されるのか。当然もって生まれた才能の差しかないであろう。

 この天才諸君のだれかがその能力の壁を破るには一つだけ方法がある。それが竹の会のとった方法であった。大手進学塾の過去問で範囲を画している。つまり、天才諸君は強制的に同じ教材をやらされるわけである。そこに理解の深浅、応用力の有無の差が決定的となる理由がある。竹の会には大手のような教材はもちろんない。数学だけは過去問に依拠した詳しい解説・解法を示したレジュメがある。これは某大手の最高テキストというものと比較して、竹の会のレジュメが優れていることは確認済みである。

 英語と国語については、竹の会独自の指導法になる。大手のように確定した、これというテキストがないから自由に方法・教材を選べる。過去問に規定されない自由な指導ができるのだ。今は様々なサイトからネット経由でこれまで手に入らなかった教材が手に入るようになった。昭和年代の名参考書、全国の予後校の教材も自由に手に入る時代である。今は過去にない、大手も真っ青の対策が取れる時代なのだ。竹の会の生徒が駿台模試で大手の天才諸君を牛蒡抜きにした竹の会の指導の秘密がここにある。わたしは手にした駒を自由自在に操り、生徒を1番にもっていくことを楽しみながらやれるわけである。

 

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