2018.02.13
おはようございます。今日もうっすらと霞がかった青空が広がりまだ2月というのにやがてくる春に思いを寄せている自分を、いやいやまだまだ寒は強いとたしなめます。9日の合格発表が終わってもまだ都立高がある、それでいろいろと気が休まらない、わたしには本当に解放されるのは3月1日の発表が終わってからということになります。すべてが終わったら小田原に住む姉を誘って箱根の湯にでもつかりに行きたい、温泉育ちのわたしには温泉はくつろぎます。疲れがどっと出切ります。この一年の様々なストレスを洗い流したい。別府だと必ず熱い湯じゃないとだめだという頑固爺がいまして水を入れようとすると怒鳴られたものでした。わたしは温泉の街別府の生まれです。温泉は熱くなくてはだめだと信じていましたから、箱根の生ぬるい湯には不完全燃焼でした。熱さを求めた草津の湯は溜まり湯に人が犇めきまるで芋を洗うようでした。別府と違うのは湯量なのかもしれません。別府のわたしの実家の周辺だけでも数か所の銭湯があります。青山温泉、九日天温泉、白湯、田の湯、忘れたけどまだ少なくとも3ヵ所ほどあってどれも馴染みだった。子どもの頃は、月100円とかで入り放題だったが、今は1回300円ほどとるのかな。市営でも山に近いと無料温泉も点在していた。別府は地域によって、亀川温泉、鉄輪温泉、明礬温泉とそれぞれに街をなしている。江戸時代は天領として金の採掘も行われていた。別府の街の隅から隅まで知り抜いたわたしである。少年の頃はポンコツ自転車でどこへでも出かけた。別府は別府湾と鶴見岳に夾まれた急坂の街である。自転車は下りはいいが上りはたいへんだった。近くの山の麓には神社があり、今は同級生が神主をやっている。小学時代は殴り合いをしたヤツで九州大の文に進んだ優等生だった。わたしの家は父が鉄道員で普通の、どちらかという質素な家庭だった。わたしは野山で遊ぶのが日課だった子どもで、気が合うことはなかった。子どもの頃はなんでも作った。ポケットには常に肥後守もどきがあり、竹や木を切ってなにかを作ったものだった。テグスに鉛と針をつけただけで投げ釣りして魚なんかを釣って晩ご飯のおかずにしたこともあった。春の蕨狩りはもう糠袋にぎゅうぎゅうに詰め込んで持ち帰る、これが朝の味噌汁の具やさまざまな料理になった。そのほか春にはゼンマイと土筆みな佃煮とかになって食べられた。婆ちゃんはこうした料理の天才だった。家の裏には畑があって野菜ならなんでもできた。ナスとキュウリ、キャベツなんでもあった。にわとりもいて毎日大きな卵を何個も生んだ。家に本らしい本なんかなかった。まともに本も読まず勉強も嫌いだった。わたしが本に目覚めたのは5年生のときか、怪人二十面相とか、ルパンとか、ホームズなんかを学校の図書室で借りて読むようになった。読む本が広がりもうさまざまな本をほとんど毎日借りて読んだ。それでも勉強は嫌いでいつも親父に殴られて泣いていた。小6のとき級友が勉強しているのを見て、「何してるの」と訊いたら、「試験勉強」と聞こえた。試験勉強とは何なのか、わからなかった。しかし、小6のときにあった知能テストで担任がびっくりして母親に知らせたということを親から聞いた。そういうわけで中1になったとき、噂に聞いた試験勉強というものをやった。と言っても教科書を読み返しただけだったのだけれど、そうしたら延岡中学1年生は500人以上いたけれど、66番だった。廊下の壁の上に1番から150番くらいまで名前が墨書されて張り出された。廊下には人が群がりたいへんだった。そのときわたしは初めて勉強に目覚めた。延岡中では20番ほどで終わって、郷里の別府の中学に転校して帰ってきた。やはり1学年550人いるマンモス中で、成績は最初は20番と変わらなかった。中2の1学期のことであった。ようやくわたしの勉強人生が始まるところであった。
さて今年の指導では23年度の指導を最後に封印していた過去問合格法を実施した。この過去問合格法というのは、昭和60年10月に竹の会が開設して以来一貫してとり続けてきた受験指導の方法であった。この過去問合格法は、平成19年に九段中等、20年桜修館、22年桜修館、両国、23年桜修館、小石川と竹の会が確実に合格を手にした、絶対的な必勝法であり続けた。しかし、21年に公立小の凡才小6が集まり、過去問合格法の使えない小学生が夥しい数いることに衝撃を受け、以後凡才対策としてさまざまな架け橋となるレジュメの創作に打ち込んできたわけで、22年、23年とレジュメ開発に没頭し、24年の指導から本格的にレジュメ指導に乗り出した。とはいっても過去問を根幹に置くところは変わらなかったけれど、過去問のいいものを選び、詳細な解説を作るようになった。この24年の指導では、25年度、小石川、白鷗、桜修館などの合格者を初めて出した。小石川は竹の会のレジュメで十分のはずであった。ところが、このレジュメシリーズをやれるほどの天才が今年は正直1名しかいなかった。さてそれで竹の会の合格に必須のレジュメをやれない子たちにどうしたら合格をもたらすことができるのか、悩んだ末、想い出したのが、竹の会伝統の過去問合格法であった。ただし、22年や23年にはみくにの銀本を使ったが、今年はもう12月でそんな時間はなかった。それでこれまで十年以上銀本を解いてきた、わたしが、この学校というのを数校選んで、その学校の過去数年分の過去問をやり尽くす戦略に変えたのである。それでも厚さは電話帳並みになってしまった。このわたしの方法をどこまで真剣に取り組んだか、が今回の分岐点になっていたと思う。少なくとも合格した子たちは完全にわたしの指示をやりきった。推測であるが、落ちた子たちの中にはおそらく不完全にしかやっていなかった子たちもいたのではないか。それは試験直前の目の色に表れていた。受かった子たちの目は生きていた。結局落ちた子たちの中にはすでに「あきら目」を感じた子たちが確かにいた。この目の色はこれまでにやれるだけのことはやってきたという事実と自信の裏付けがない子たちには必然「あきら目」となったのではないか。
◎仮合格から渋谷Bに入室して、合格した子のお母さまからのおたより
この度、ご縁を頂けたのは、先生のご指導ご尽力あってこそです。本当にありがとうございました。 5年の夏休みから、本当にあっという間の1年半でした。入塾は遅かったですが、走り続けて、大変充実した日々でした。もちろん、レジュメが思うように進まない事も多かったようですが。。。 息子は、竹の会に入ってからはよく、 勉強が楽しいと口にしていました。それは「教えられる」勉強から「考える」勉強になり、自分で考え解くことで感じていたのだと思います。「思考力」と言葉で言えば簡単ですが、元々持っている子を除き、それを持っていない息子のような者が身につけるのは、一朝一夕ではなかなか難しいことです。その種を蒔き、成長を見守って頂ける塾に出会えて、本当に良かったです。また、竹の会で、同じ目標に向かうお友達に出会え、切磋琢磨し励ましあえた事にも、同じく感謝せずにはいられません。親としては、まだまだ未熟な息子を、本当ならもう少しの間、竹の会で阿部先生に見ていただけたら…というのが本音です。 阿部先生、どうぞお身体を労わり、末永く竹の会を続けてください。 長い間、ありがとうございました。