画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

竹の会と同じやり方   

2024.06.15

🔛竹の会と同じやり方

 竹の会の指導システム、体系は、かなり独特のものだと思っている。同じシステムがあるとはとても思えない。もちろん「考えさせる」ということを謳い文句にした塾があることは間接的に耳にしたり、そういう広告を目にしたこともある。
 竹の会には、よく「前の塾も竹の会と同じでした」という面接の母親などもいた。ん?と思ったが、「何が同じですか」と問うと、まだ竹の会の指導というものを全く知らないのに、勝手に「こういうものだろう」と決めつけて、「前の塾も、生徒に考えさせるという方針で、生徒は与えられたテキスト(たいてい新小学問題集とか、新中学問題集)を席で考えて、わからないときは、先生に聞きに行く」のだという。まず、一般的に通年授業用とされるテキストを生徒に丸投げするところから、竹の会とは、違いますね。
 そういうことは竹の会に入って見なければわからない、と思います。考えさせると言い、市販教材を使っている時点で、かなり問題があります。知能の高低、進度の遅速、そもそも一般テキストでは対応できない前提学力の問題、また、テーマで分類して項目別問題集の欠陥、つまり、テーマである程度解法のヒントが与えられている、さらにそういう類いの問題が集められている。必ず、解き方のついた例題があり、それを類推して解くようになっている。
 要するに、そういう市販の、既成のテキストを使うこと自体アウトなわけですよ。
 「竹の会と同じ」という認識そのものが、浅い。生徒に考えさせてわかるまで待機している、時間かけてもわからないとき、先生に教えてもらう、そういうところを捉えて、竹の会と同じと言うことを言うわけですが、勝手な思い込みですね。
 思考育成とは、そんな素朴な次元で竹の会は考えていない。子どもたち一人一人の思考段階というものをわたしの経験値から判断し、今、どのような指導が必要か、リアルタイムで判断し、適切な教材を準備し、指導と検査を繰り返します。わかるまで考えさせる、というのは、無理があります。もちろん知能を診て考えさせるのでしょうが、検査指導すれば、その子にどこまでの指導が可能かわかるはずです。というか、考えさせるというのは、考えればその子なら解けるはずという見込みあってのことでしょ。闇雲に考えろ、はない。というか、検査指導の結果、この子には前提としての思考枠組みがないのだな、と判断して、この子の思考のエリアを読み取り、一歩前へ進めるための、指導教材を用意するなどの手当てをするのが、竹の会の指導です。
 東京には、竹の会のような塾はないと思います。竹の会は、わたしだけにできる指導が、その核をなしているからです。かつて竹の会を退塾を余儀なくした親子が、竹の会のような塾を探したようですが、残念ながら竹の会のような塾を探すのは不可能でしょう。竹の会は、わたしの指導技術がすべてだからです。だから竹の会と同じような塾を探すというのはわたしを探すことになるからです。
 わたしの指導技術は一朝一夕にして完成、いや到達したものではありません。ほぼ40年の指導を通して、学んだ、工夫した、発明した、経験に教えられた、境界知能児から天才まで、様々な性格、個性の子どもを診てきた、毎年の入試という死刑宣告を受けて、新たなる発想、工夫を重ねて、今に至る、指導というものの正体、受験のなんたるかを体でつかんできた人間の、到達点なのです。子どもの脳の機微を刹那の表情の動きを捉え、まるでスキャニングするように心の影を映像化する。わたしは、今のわたしの、指導技術水準を最高の到達点と考えております。小数の計算もろくにできない小4だって、わたしの手にかかれば、数か月あれば、逆算を含めて、かなり高度な四則混合演算をマスターしていることでしょう。わたしの指導技術の価値を知るのは、竹の会をなんらかの理由で辞めた後のことでしょう。竹の会の価値を実感するのは、入会して初めてわかる、また辞めて他塾に行ってわかる、そういうことなのではないでしょうか。
 あいも変わらず、小学低学年を「學」で身を立てることに思い至らず、習い事、稽古事、スポーツで貴重な時間を捨てて、子どもの訓練時期を逸する親たち、子の近視眼的な思いつきに翻弄されて、この時期を無為に過ごす、ことのつけ、代償は、必ず中学で払うことになります。

 あなたたちが、このわたしの指導の妙に出会うことはもうないかもしれません。
 竹の会の指導を知らないままに、塾とは、こういうものだ、と思い込んで、行くのも勝手です。
 竹の会は、塾の形式にこだわってきたわけではありません。子どもたちを伸ばすには、どうすればいいのか、そのことばかりを追求していたら、今の指導形態になっていたということです。
 思考は、インプットでは伸びない。インプットでは、知識はついても、思考を伸ばすことはできない。子どもが、「はっ」と合点すること、子どもの内心で符合すること、つまり、「なるほど」と思わせること、これは、アウトプットの過程で可能なのではなかろうか。わたしは、そこからレジュメをどう作ればいいのか、考えた。材料は、過去問の中からいくらでも見つかった。わたしは、もう40年近く過去問ハンターとして、狩猟生活をしてきました。いい獲物を見つけると、心が躍りました。これをどう料理してやろうか、と考えることがわたしには楽しみでした。いい作品ができるとこれで子どもたちの力をいい形で伸ばすことができると喜びました。
 高校入試のためのレジュメは、平成17年から本格的に執筆に入りました。難関校の過去問までレジュメ化が完成したのは、平均19年12月のことです。今、竹の会の中学生が取り組んでいる、さまざまなレジュメは、その時に作られたものばかりですが、その後も作り続けていますので、竹の会は難関校受験のための指導体系は完成しているのです。
 小学生のためのレジュメは、中学生のレジュメが一区切りついた、平成20年あたりからだと思います。ただ当時はまだワード版が中心でした。平成23年ようやくわたしは数式ソフトを使い、本格的なレジュメ制作に入りました。高校入試のためのレジュメはもちろん数式ソフトで制作したものです。なぜすんなり小学生のためのレジュメを数式ソフトで作れなかったかというと、わたしは、当時、小学生に割合をどう理解させたらいいのか、悩んでいたからです。あれこれと試作レジュメを作っては、子どもたちに試してその効果を見る。そういうことをしていたのです。割合のミクロマクロ法の発見、完成が、平成23年のことでした。明けて、わたしは平成24年から、入会試験を制作したのを機に、本格的に、小学生のためのレジュメの制作に入りました。24年の制作は、初めての本格的な、小学生レジュメの制作でしたが、翌25年には、小石川、白鷗、桜修館に合格者を出して、その効果に驚かされました。しかし、そのレジュメの真の意味するもの、価値に気づかずに、大量のワード版のレジュメを復活させたり、新作を大量に投じたりと、子どもたちを困惑させてしまったのです。この26年受検の3人の不合格はわたしには衝撃でした。いずれも早稲田進学会模試の成績優秀者でしたから。白鷗に補欠で落ちた女子は、宝仙理数に進み、6年後東北大学に合格しました。また桜修館を落ちた男子は、3年後慶應志木、日比谷に合格し、慶應に進みました。また小石川を失敗した女子は、3年後に日比谷に進学し、3年後に杏林医学部に進学しております。竹の会育ちの、わたしが、心をかけて指導してきた子たちが、それぞれに結果を出しています。竹の会とはそういう塾です。多くの卒業生が、それぞれに素晴らしい道を進んでおります。
 それはともかくとして、わたしは、自分のレジュメの価値に気がつくまでに、それから10年経ってようやく自分のレジュメの真の価値に気がつくに至っております。それは、少ないレジュメでじっくりと仕上げた方がはるかに合格につながるという、なんとも呆気ない真理でした。それに気がついたのは、あの「合否判定レジュメ」でした。あれは、16題、実質15題、あれを成功裡に終えた者は、99%合格するという事実でした。わたしは、同じコンセプトで、令和4年に、10題ほど執筆、制作しました。竹の会には、そういう精神に立ったレジュメが、掘り起こせば無尽蔵にあるではありませんか。要は、レジュメを選び、じっくりと解かせることです。少ないレジュメを使用した年の方が受かっているのですよね。
 學で身を立てる、まずそこでしょ。何を血迷ったか、習い事、稽古事、スポーツで身を立てるわけでもないのに、學は、それ以下にしている。
 その判断が、おかしいのです。サッカーで身を立てるのですか。将来プロ野球選手として食っていくのですか。将来ピアニストになるのですか。
 普通は、學で身を立てるのではないですか。塾に通い、夏も冬も勉強、それがおかしですか。野球に明け暮れる、サッカーに明け暮れる、それの方が余程変ではないですか。勉強もしないで、将来その道のプロになれる人なんてほとんどいないのに。しかし、勉強は、将来それで身を立てる、食っていける人は、普通にいます。
 小2の一番、いいタイミングのときに、勉強をなおざりにするなんて、わたしには、こんなもったいないことはないと思います。
 小2で計算の達人になる。こんないい機会はない。計算の達人になれば、割合概念と親しむ。小3で、芝中の割合の問題を解く、こんな素晴らしいことはない。わたしは、割合を通して、算数の面白さに触れてほしい。算数ほど頭をよくする科目はない。算数は、文字は、使えない。しかし、意味から考える、鳥瞰的に観る、逆算、つまり逆推理する、いやいや、算数のいいところは、とにかく図をかくと見えてくることかな。的確な図、正確な図は、これまで見えなかったものが、見えてくる、のです。そう、算数とは、そういう科目なのです。逆算的思考というのは、結果から推理していくことです。例えば、濃度のわからない食塩水2種類を何回か混ぜ合わせて、最終的な濃度はわかるという問題があります。これは、混ぜ合わせた最後の結果から逆算していきます。これも見えないものを見るためです。算数は、鳥瞰的に見ると見えてくることがある。述べ数の問題はそうですね。見えないものを工夫して見えるようにする。これって算数の醍醐味だと思うのですが。
 そういえば、竹の会で、解き方とか、公式とか、そういう言葉がないかな。この型の問題にはこの公式、そういう発想がない。わたしは、図はかかないの? 単位をつけるとわかりすいよ! この式の意味はどうなの?とよく質問します。
 子どもたちにどうやって見えるようになったの?と問いかけているわけです。
 算数は、頭を良くする学問です。決して、大手塾のような難問を天才が解く、という科目ではありません。そういう算数の面白さをわたしは小3、小4から経験してほしいと思っています。
 小5や小6で竹の会にやってくる、これは遅すぎます。また小5あたりから大手に行く親子は何を考えているのでしょうか、さっぱりわかりません。
 勉強には、タイミングというものがあります。算数の境地に達していない小学生が、中学で塾に行ったところで、落ちていくことは目に見えています。算数の欠落した子は伸びないのです。親は、中学になったら中学のことを学ぶために塾に行けばいい、と考えているのでしょうが、飛んでもない考え違いです。小学というタイミングで、算数をこなせる、これは頭がなんでもどんな中学の難題でも対応できる柔軟さを備えているということなのです。
 初動を誤れば、終わりです。なんで小2からその道のプロになるのでもないのに、習い事や稽古事、スポーツにそのほとんどの時間をかけるのでしょうか。
 勉強、塾に時間をかける人たちを、スポーツに汗をかく親子は、一度しかない時期、夢がないなどと批判しますが、その時期に、それで身を立てるわけでもないのに、一家総動員で時間をかける家庭の方がわたしには異様に見えます。それで最後は、教育困難校ですか、推薦で進学ですか、それまでまともに受験に取り組んできたことのない人たち、推薦で入った高校で、また部活ですか、勉強と距離を置いてきた人たち、親子、家庭、そういう人たちがどんな人生を歩むのか、わたしにはわかりませんし、想像する価値もないですね。

 

ページトップへ