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竹の会における指導中断の、想定された効果について

2018.11.25

 おはようございます。今日はいい天気になりました。今日は、11月25日日曜日、11月ももう残すところ5日になりました。余談ですが、民法では、期間の計算は「初日不算入」が原則とされていますが、中学受験でよく出るカレンダーの問題も計算するときは初日不算入です。また例えば、会社法で、「招集の2週間前」というときは、「中2週間」です。まあ、ほんとうに余談でしたが、11月の勉強と12月のそれの違い、それは12月になればわかります。精神的な重圧が違うということですが、それは12月、冬期、1月と多くの受検生が、親たちが、焦りに負けて、愚かな、もがきとしか見えない行動に走る時期でもあります。竹の会では、この時期を心穏やかに乗り切るために子どもたちの心を静かに誘導する、そのために、今やるべきことを具体的に示して、落ち着いて行動することを企図し、これからの時期を決められたことをこなし、冷静に過ごすように、指示してゆきたいと思います。

◎竹の会を2日休んだらどうなるか

 成功する子は、絶対に休まない。どんなことがあっても休まない。
 記憶に残る子がいる。27年桜修館合格の女子。 小4の2月に入会したときから、小6の1月まで、休んだのは、3回、一回はインフルエンザで、残り2回は、発熱です。休んだのは、それだけでした。よくある法事帰省、盆帰省、正月帰省なし、その他よくある習い事、稽古事、試合、合宿、発表会、昇級、昇段試験も一切なし。とにかく休むことはなかった。インフルエンザで休んだときは、涙を流して泣いた、とのこと。彼女は知っていた。竹の会を休むということが、どれほどの損失をもたらすか。それは一般の皆さんが軽く考えているのを遥かに凌ぐ損失となるであろう。どれどの不利益なことか、できる子ほどその意味を悟るものです。彼女は、竹の会の一回の指導の中身の濃さをよく知っていた。その一回の価値を知っていたから、彼女は、竹の会の7時間、決して勉強の手を休めることはなかった。ひたすら与えられた指示に集中した。だから一回でも休むということは、彼女には考えられない損失としてあったのではないか。中身の濃い一回を飛ばせば、それは後からまた一回中身の濃い指導を受けたとしても、失った一回の損失は取り戻せないのだということをよくわかっていた。特に、小4時の一回と小6時の一回では、一回の重みか違う。受検というのは、何かをやりながらやれるというものではない。というか、難関試験になればなるほど、1日10時間、一年集中して受かるという真理がある。小学生の場合は、それがそのまま言えないのは、難関試験の場合は、すでに試験レベルに達しての、なんたるかを知っての、一年ということであるが、小学生の場合は、ゼロから始めて、合格レベルまで、もっていくという特殊な事情があるからだ。かつて小6の夏休みに、区の海外ホームスティに参加して、9月に、夏の間、1日7時間勉強した者との実力差を見て、というか、自分が余りにもできなくなっている現実を見て、退塾した子がいた。小石川志望で能力は高かったのに、何もかも手に入れる、そんなことはできないのに、なぜか、「なんとかなる」と思う、人間の心は目の前の快楽を肯定するのに都合よくできている。サッカー三昧でも、部活三昧でも、今は勉強しなくても、「なんとかなる」と考えて、今の自堕落を肯定するところに、凡人の骨頂がある。
 真理 はただ一つ。わたしにはわかっている。ずっとわかっていたことだ。わたしの指導を中断させること、これがすべての敗因なのだということを。わたしが常に見ている、もちろん勉強を。黙々ととしている姿を。そしてきちんきちんと課題をやってくることを、それをわたしが見ている。これである。決して休まない、続ける、こつはこれである.
 一週間休むということ、これは休んだ期間勉強できなかったというだけのことではない。継続がもたらす勉強の動力をゼロにしてしまったということ、次に、勉強を動力をスタートさせるのは、かなりのエネルギーがいるということを。一旦ゼロになれば、次の始動には何十倍もの負担がかかる。中断したら、次に、始めるときは、前の続きからと思っている人が多いが、そうではない。最初からやらなければならない。前の理解を繋ぐことはできない。前のことはすっかり消えてしまうからである。
 また最初からやるとして、その場合の無力感がもたらす消極的な姿勢も無視できない。遅れたことが、頭のいい子ほどよくわかるからなかなかやる気がおきないのである。差は広がるばかり、時間が経つほどに無力感が心を満たし苦しむことになる。そうなると、無為に過ごす、何か享楽的な方に気が流され、あえて部活に身を入れる、なにかと用事を、口実をつくり、勉強を回避するようになる。「中断」の恐ろしさは、ただ中断するに止まらないから厄介なのである。怖いのは、中断が、習慣になることである。中断することに抵抗がなくなる。これが怖い。つまり、中断の怖さは、一旦中断すると、二度、三度と中断が習慣になることである。これは、取りも直さず、勉強しない人間への変身となる。勉強しなくなるということである。
 子ども、いや中学生も、勉強の継続を中断するということの持つ意味は、多くの親御さんが思っているのを遥かに超えて、受験の失敗という道に踏み入れることを意味する。その重大性に、親たちは、一向に気づかないで、自らの選択が、いずれ子の破滅をもたらすとも知らずに、月曜日は習い事、火曜日は稽古事、水曜日は塾、木曜日は英語教室、金曜日はピアノ、土曜日は水泳教室と、中断の日程で埋め尽くす。この人たちは、いったい子どもをどうしたいのか。毎日が習い事、稽古事。それは、子どもたちに、中断だらけの、全く勉強とは、真摯に向き合うことのない生活を強いているだけではないか。こういう子が、勉強と真剣に向き合う姿勢など持つはずがない。中断に慣れた子たちは、中断に抵抗がない。だから盆休み、正月休み、なんでも受け入れる。風邪、熱で休んでも心は痛まない。中断の悪弊が、勉強への関心を削ぎ、勉強への敬意、尊敬を低下させる。それはそうだろう。勉強をそれだけ蔑ろにするという躾を受けていれば、そういう躾そのものが、勉強を軽く見ていることを植え付けていることにほかならないのだから。勉強を軽視しているのに、塾へは通わせる、受検もさせる、この辺の齟齬は、どう説明をつけたらいいのか、塾に行けばなんとかなる、ただそう考えただけ。受検もそれで受かると考えただけ。要するに、なにも考えていない。だから、大手を選ぶ。大きいところなら、やることがすごい、そう考えただけ。こういう親はおそらく受験を知らない、やったことがない。試験を受けたことがない、もちろんそれなりに難しい試験のことだが。

 中学になって、「うちの子は全く勉強しない」と嘆く母親。「勉強しろ」と言っても、言うことを聞かない、と嘆く。中学になって、今更、「勉強しろ」はない。勉強とは、習慣であり、継続である。親が勉強の覚悟をしてないから、いくらでも子どもを甘えさせる。親がやるべきことをやってこなかったことが、すべてであり、子どもをそう躾たのはあなたでしょ。
 教育というのは、後から、やり直しがきかない。だからわたしは言っているのです。中断をしてはならないと。中断は、副作用の強い、快楽剤である。人間はもともと快楽的志向が強い。楽をする方に流されやすい。習い事、稽古事、スポーツ、みな快楽的本質を持つものであることを忘れてはならない。これは許される、これは別だ、という論理は、成り立たない。
 子どもが、喜ぶのを見るのはそれはあなたの心を満足させることでしょう。しかし、子どもの喜びは、刹那的な、責任のない、無邪気なのものである。将来のこともなにも考えてない。今しか見ていない。今が楽しいから喜んでいるのです。刹那的な喜びです。というか子どもは遊びに喜びを見つけます。子どもは快楽を消費する。親がそれに合わさて快楽を振る舞ってどうするのですか。
 きっとあなたたちは、「子どもによかれと思って」と言うかもしれません。あたかも子どもの将来の糧になるかのような感覚かもしれません。しかし、あなたたちのその漠とした投資の感傷は子どもたちがただ刹那的な営みとして快楽を消費していただけだと知る時が必ず 訪れる。あなたたちは、子どもに快楽の消費を躾てはならなかったのです。躾けるべきは、勉強への敬意であり、継続のもたらす重みが、地球より重いことを教えることでした。どんな理由も、継続を破る正当性はない。中断という勉強を侮辱する洗脳教育をしておきながら、「勉強しなさい」は通らない。

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