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竹の会における逆転現象の常態化

2021.09.14

 

◎竹の会における逆転現象の常態化
 竹の会では、昔からある現象があった。その現象が小2から入会を許可したあたりから、あからさまに顕著となってきた。
 その現象とは、例えば、小6、小5より、小4、ときには小3の方が「できる」という逆転現象のことである。
 小5ないし小6あたりから入会してきて、竹の会の小3ないしときには小4の方がはるかに進んでいる、できるという事実をまざまざと見せつけられる。自分より低学年ができる。自分は計算も未熟、割合の初歩でもたもたしているのに、低学年が、複雑な計算を当たり前のように解き、涼しい顔して、割合上級問題に取り組んでいる。そういう光景が珍しくない。
 小2に入会すれば、計算はじっくり時間をかけて、小3になる前には、計算を完全にマスターしている。これは中学受験の難解な計算問題を簡単に解くということである。いいですか。小2ですよ。小3になる頃には、割合の初級に入っている。小3の一年は、割合中級レベルに達するほどに思考力をつけている。
 この頃、小5や小6が入ってくると、計算からまずできない。全くと言ってできない。そういう子たちの竹の会に来るまでの経歴を見てみると、一番多いのは、どこかの大手に行っていたというもの、あと塾に行ったことがないというのもいる。公文、z会の通信といったものをやっていたという子もいたが、こういう子たちが、自分より低学年の子たちが「できる」、それもかなりできる」という事実を突きつけられる。こういう子の中にはなかなか能力のある者もいるけれどなんとももったいない。早くから竹の会に来ていたら、かなり「できる」ようになっていたと思われるからだ。総じて、遅れた感は否めない。というのは、本物の思考力を身につけるには、2年は要する、というのがあるからである。
 これは、例えば、小3に入ってきた子の話しが参考になる。
 この子が、一年ほど経って割合に入って、まあよく「わからない」とやってきたものだ。そのたびに、考えなければだめだ、図をかいて考えろ、式をかけ、と説明するたびに言っていた。わからない、やってくる、叱られる、そういうことを繰り返していたものですが、二年ほど経って思うのは、考えろ、と言えば、わかりました、と席に戻る。それから時間が経って持ってくる。図を見て、これはもういいか、と私が図をかく。そういうことをやっていたのですが、ある時から正解率がよくなってきた。よく考えるようになってきた。式なんか見ているといい線行っている。変わったな、乗り越えたな、そう思った。
 今でも訳の分からない図や式を書いてくる子がいますけど、そういう子を見ていると、乗り越えられるのかな、乗り越えなければ私にはどうにもできないんだよ、と思う。
 本物の思考力を身につけること
 計算をマスターして割合初級、割合中級へと進む過程において、「わかりません」と言って説明を受ける回数が最初は多い。しかし、一年経ち、二年経ち、自分で、図をかいて解いていくことができるようになる。こうならなければ受検は無理である。わたしはそういう日が来るのを待っています。
 いつまでたってもできないという子は受検は正直諦めたほうがいい、と思います。
 何も無理をして受けることはない。そもそも倍率8倍の試験なら普通の子は受からない。ましてや普通の子より呑み込みが悪い子が受かるわけはない。指導でなんとかなるということはない。
 いつまで経っても図もかけない、図をかいて解くというスタンスが取れない、こういう子は伸びる見込みはない。
 一度説明を受けた問題と似た問題が出てもわからないというのは、正直見通しは暗い。また、基本的なところでなかなか捗らないというのも、それは受検云々の問題ではないと思われる。
 断っておきますが、竹の会は、そういう子を指導する塾ではない。そういう子のための塾なら別に竹の会ではなくても、家の近くにそれこそいくらでもあるのではないか。
 わたしは、普通に説明したら、普通に響く子を念頭においている。竹の会は、都立一貫校に合格させるためにある一定レベルの子を集めて、指導をすることとした。都立一貫校は、都合倍率8倍の難関である。誰でも勉強したら受かるという試験ではない。だから竹の会は、塾生を選んでいる。入会試験で、不合格となった子について、入会を認めたケースの追跡調査では、指導は困難のことが大半で、高校受も失敗している。
 仮合格というのは、ある時期認めた。この中からは、複数の合格者が出ているが、大半は失敗している。仮合格の場合、落ちた子は公立中で成功することはほとんどなかった。正規合格者の場合、合格する者もいれば落ちる者もいる。落ちた者も公立中学で成功するケースが多かった。
 合格する見込みがほとんどないと思われる場合、竹の会で本来指導することはできないはずでした。しかし、当の親子には、まず受検ありきで、合格に対する主観的期待は大きく、私のクールな目とはかなり温度差があります。
 竹の会には、最初から高校受験目的という子も偶にいます。そういう子はたいてい小6の4月入会が多く、そういう子たちが、過去都立西や都立青山に合格しています。そういえば平成10年に早実高校に合格した鈴木君も小6入会でした。

◎独り言

 個性、じぶん探し
 西欧近代的自我と「わたし」
 個人主義思想

 個性的に、とはどういうことか。子どもはそれぞれ個性が違うからとはどういうことか。
 世間は、個性的にと言われればすべてわかったように顔をする。
 本当にそうなのだろうか。
 心に個性なんかあるのだろうか。
 心と意識は同じものなのか。
 あの人の心とこの人の心には、違いがあって、つまり、心は個人個人違うものだ、という理解があって、そこから個人はそれだけで尊重されなければならない、という個人主義が、主張されてきた。このような個人主義は、西欧近代的自我に由来する。
 養老孟司先生は、その著書の中で、この点に、私見を述べられている。
 先生は、解剖学者だから、心なんて区別なんかない、と喝破される。
 愛は不変だ、と女が言えば、へっ? と思う。養老先生は、人間の体は、一週間前とはまるで別の細胞からできている、つまり変わり果てている、と言っています。
 養老先生の結論は、個性とは、身体のことだ、ということになりますか。
 これはわかりやすいですね。心なんてもともとない。形もわからない。そもそも目に見えない。昔流行った「じぶん探しの旅」というやつも、もともとないものを探す旅であったわけです。
 いやいやじぶん探しの旅を口にする人たちは、現状に不満足な人たちで、今のじぶん、例えば、朝からコンビニで働いているじぶんは、本当のじぶんではない、本当のじぶんはもっと別のところにあって、じぶんはそれを見つけられないだけだ、と考えるわけです。
 心理学者なら、現実逃避の別表現だ、と言うかもしれない。
 解剖学の養老先生は、心なんてもともとない。だからじぶんももともとない。だからじぶん探しなんてありえない、と述べられているわけです。
 それでは、個性とは何か。
 養老先生は、身体のことだ、と結論づけておられます。
 人は現在ある自分の身体の、実寸大の影響を受けざるを得ない、のは確かです。背が低ければそのありのままの身体が自分の心に影響する。その意味では、養老先生の言われるように、確かに、個性とは、身体のことである、と言えます。
 心には形もない、実体もないのです。心が意識とすれば、その意識は、身体が死に絶えれば必然消えます。一瞬に消えます。
 私は心には実体などない、という意見に納得せざるを得ないのです。
 さて、それでは心とは何か。
 心が個性を主張するのは、おかしなことです。
 心は、脳に宿り、身体が生命を持つ限りにおいて、意識映像を脳スクリーンに映写するのではないか。とすれば心は映写機、それも言葉や映像というものを自由自在に写し出すことのできる、優れた映写機ではないか。
 五感から伝わる、例えば「寒い」という感覚は、心によって脳スクリーンに映し出される。
 勉強するとは、心の働きがなければなしえないことではないか。
 脳とは、身体に属するが、心のみが操作できる。記憶するとは、心が脳の格納庫に、言葉、概念でできたプログラムを組み込むことにほかならない。そうなると心は外界と脳を繋ぐプログラマーなのか。脳に知識を組み込むには、心の、意識のはたらきが大きい。意識が「理解した」と納得するプログラムがなければ脳には格納されることはない。

 そうなるとプログラムを作ることが心の仕事になる。コンピュータならプログラム言語を使う。心はどうか。わたしは抽象的思考こそがこのプログラムにあたるのではないか、と思っている。してみれば勉強とは、心が抽象的言語を操作できる過程にほかならない。

 以上、独り言でした。

 

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