2020.04.13
竹の会の出身者の進学先がすごいことになっている
先日26年卒業生の女子が、東北大学に合格したという報告に竹の会にやって来ましたが、その後、27年都立戸山合格の男子が、一橋大学に合格したとの報告をお母様から受け取りました。
そのことについて塾生が、「竹の会の子たちって、皆いいところに行きますねー」と言った!
わたしは、「そうだな」と相槌を打ったが、皆んないいところに行っているのは、確かにそう思う。
そこで、都立中高一貫校に合格した子たちで、報告があったものを思い出してみた。
19年九段合格の男子は、6年後に、東京工大に合格している。渋谷区の幡代小の子であった。これはお父様からの報告であった。
22年桜修館に合格した男子は、6年後に、京都大学法学部に合格した。これは、本人からの報告でした。
23年小石川に合格した男子は、6年後には、東京工大に合格しています。これも本人が報告に来ました。
26年白鷗に補欠で涙を飲んだ女子は、宝仙理数インターに進み、6年後に、東北大学経済学部に合格した。これは本人が報告に来た。
同年桜修館に失敗した男子は、3年後に、都立日比谷、慶應志木に合格し、慶應大学へ進んでいる。日比谷合格はお母様からの報告であった。
27年都立戸山に合格した男子は、もともと両国に失敗した子であった。本年一橋大学社会学部に合格したという報告がお母様からあったことは前述の通りである。
さて、
それでは、旧元代々木教室の時代、つまり高校入試時代はどうなのか、と記憶に残るものを思い返してみた。
竹の会から、東大に進んだ者はいないのか。
それがあるのである。過去2名いる。
一人は、都立青山に合格したY君である。彼はその年青山から2名の東大合格者が出たが、その中の一人である。もちろん現役合格であった。ちなみに理IIである。、
もう一人は、平成20年に桐蔭理数に合格したY君である。一浪して東大経済学部に合格している。これは本人が報告に来た。
都立目黒から、北大の推薦に合格した男子が、報告に来たことがあったが、記憶に薄くて、誰だか忘れた。
千葉大学工学部に合格した男子がいた。彼は中2から不登校で、素内申が10しかなかった子であった。担任が数学で2をくれた。定期試験は受けていた。学校に行ってないのに、80点前後取っていたのには驚いた。この内申で受けられる都立はない。偏差値51ほどの都立鷺宮高校でも、合格には、450点(500点満点)以上取らなければ無理。
しかし、彼は合格した。懇願されて高校3年間も指導した。一浪はしたが、後期日程で、千葉大学工学部に合格した。
実は、東京理科大なも合格していた。どちらにするか、相談を受けた。なお、前期日程では、一橋大学を受験している。鷺宮高校では3年間学年1番だった。
早慶は、それなりにいる。平成10年早実高校合格の鈴木君は、早稲田大学商学部に進んだが、実は、竹の会の同級生で都立駒場に合格した男子も早稲田大学商学部へと進んでいる。
佼成学園に進んだ男子が、早大教育に進み、翌年慶應法に再受験で合格している。
竹の会の指導で、平成14年慶應大学総合政策に合格した女子は、竹の会から青山学院に合格して、その後3年間指導した子である。予備校や大手塾には一切行ってない。全くのわたしの指導のみであった。彼女は、上智大の経済にも合格した。
13年都立西に、竹の会から合格した男子は、西の3年間竹の会に通い、慶應理工に進んだ。元々は東大受験者であった。
7年東邦に合格した男子は、その後順天堂大学医学部に進んでいる。
立教中学、立教高校、慶應経済と進んだ生徒もいる。
都立駒場、中央法と進んだ生徒もいた。
記憶を辿れば尽きないほどある。報告のないものもあり、わたしの記憶もかなり怪しくなってきた。なにしろ今年の10月で35年になるのだから。竹の会がスタートしたのが、1985年の10月のことであった。今年の2020年10月で満35年となる。竹の会から巣立った卒業生の数は夥しい数になり、もはや名前も顔も思い出せない者が多数いる。先述の北大合格者も北大合格の報告にわざわざ竹の会まで訪ねてくれたのに、わたしはすっかり名前も顔も忘れていた。申し訳ないことをした。東大の経済に合格したY君は、ピンポンと鳴ってドアを開けたとき、だれかわからなかった。卒業年と名前を聞いて思い出した。竹の会というのは、不思議な塾であり、もう十年も二十年も前の卒業生が突然訪ねて来ることがよくある。そうなるともう忘れてしまった卒業生を必死で思い出そうするのはいつものことである。