2022.10.08
◎竹の会の指導哲学からみた成功の鉄則
成功の鉄則1
法則性を見つけることに徹する‼️
これから述べることは、勉強の常道なのではないかと、発見的に思料するものである。
法則とは、規則性である。知識、特に体系的知識というものは、あるルール、規則に従って、というか根拠に基づいているものである。それははっきりとしたルールではないこともある。あるコンセプトに根拠を置くとか、概念を根拠にすることもある。私たちは、目に見える知識の外観に目を奪われてはならない。その背後に隠された、いや語られてはいないが、明確に根拠とされている法則に気を配らなければならない。勉強とは、いや総じて学問とは、そういう法則性を発見しながら知識を論理的に根拠づけていくものである。
煩雑な知識に価値はない。訳の分からない知識に価値はない。曖昧な知識は知らないのと同義である。人間の理解の、整理の限界を越える知識に翻弄されるな。知識は常に価値論から評価される。その知識が必要な根拠を尋ねろ。
人間には「智慧」がある。わたしは人間の智慧を信じたい。智慧とは、当面法則性を、飽くまで法則性を追究する精神の営為である。
成功の鉄則2
「やってはいけない勉強」に早く気づくこと
受験には、分厚い本は決して読んではならない、という不文律がある。これは、一冊の本は少なくとも7回は回す、という不文律かくる要請である。
また、一冊というのは、少しく説明がいる。例えば、書かれた視点は違うが、内容的には、70%重なる、という場合がある。このような場合、両方読むか、それでは効率、特に、一冊主義に反するのではないか、ということである。受験においてなによりも重視しなければならないのは、時間の節約、時間の無駄の削除である。
「やってはいけない勉強」とは、試験で求められる知識ではないものまで手を広げるな!ということである。これは、そこまでは「踏み込まない」勉強 成功の鉄則4と重なる。
成功の鉄則3
迂遠と直截
勉強には、効率が求められる。例えば、高等数学なら絶対に解答つきの問題集のほうが効率がいい。解答読んでも「わからない」ときは、当然教科書に戻らなければならない。だから教科書と詳細な解答付きのシンプルな問題集さえあればいい。ここでやたら参考書に飛びつかないことだ。もちろん高校の数学には、巷にもいい参考書が出ている。お薦めは、細野の数学シリーズだろう。しかし、確かに魅力的な、しかも独学に向いた参考書ではあるが、今の私なら迷わず教科書を精読して、シンプルな問題集をやる。
成功の鉄則4
そこまでは「踏み込まない」勉強
成功の鉄則5
時間の節約
成功の鉄則6
読んだら落ちる本というのがある。予備校の完全網羅本は、完全故に絶望的に厚いから、やる気を減殺し、その効率は士気が落ちるから最悪の悪循環をたどる。
どんなに良いと言われる本でも読んだら落ちるという本がある。予備校本ではないが、かつての我妻栄「民法講義」シリーズであり、団藤博士の「刑法綱要」はそうだと思う。学者の本は、学者が学生のために書いたわけではなく、学界に自分の説を名乗り出るために書いたものだ。だから団藤博士の刑法綱要は、全2巻総1500ページの5分の1が、参考文献で埋め尽くされている。そのほとんどがドイツの文献であり、試験には一切無用な記述である。研究者のための体型書でなくてなんなのだ。
予備校本は、無用な知識が多過ぎる。必要な知識が一つでも欠けているとその信用性はたちまち落ちる、と考えているのだ。
私は、筑駒、開成高校の受験対策において、それまでに私の経験から蓄積してきたノウハウを信じて、予備校本を利用はしたが、適材適所ほ旨とした。
受験というものを、そして予備校というものの手口を、参考書というものの効用を、模試というものの利用価値を知り抜いていなければ、本に潰される。わたしの経験から、打てる手があるかを模索し、生きた手を打つ、これがプロの指導だ。
少なければ「やる気が出る」
人間の心理とは、本質そういうものです。「これだけ」というからやる気も出るのです。
私の大学時代、民法なら我妻榮の「民法講義」をやらなければ受からない、というのが主流でした。しかし、民法講義は、「総則」だけで500ページ超ありました。「物権」「担保物権」「債権総論」「債権各論(4巻)」絶望的な冊数です。ほかに「不法行為」と「親族・相続」は、他の著者で読まなければ、民法講義ではカバーされていない。不法行為は東大の加藤一郎が定番でした。親族相続は我妻榮・有泉亨「民法Ⅲ」が定番でした。中央大学の私的団体「真法会」は当時全国を席捲する司法試験指導指南の役目を果たしていました。これが今から振り返ると弊害というか害悪の根源でした。わたしの大学時代の級友たちは、松坂「民法提要」(全5冊)で済ます者が多かった。私の級友数人は全て上位、中には一桁で合格している。その中には、高等裁判所長を務める者も出た。当時は予備校もはしりで、予備校は大学の私的団体からは鼻にもかけられなかった。それが今では予備校が支配する時代であり、予備校なしには、合格は考えられないほどになった。予備校の天下が続いて、今度は、微に入り細に入りやたらと分厚いテキストが高価な講座とセットで売られるようになった。合格者の100%が予備校で勉強したとなると、試験の合格最低線は予備校が押し上げていることになる。蟻地獄と表裏の予備校が分厚いテキストを押し付ける時代を弊害と呼ばなくてなんと言おう。予備校が合否を左右するとなると、貧富の差が如実に反映することになる。合格を独占支配する予備校が、高価な講座を教材を餌に売りつける時代である。
こういう時代に、「少なければやる気が出る」などと言っていては受からないと思うでしょうか。
しかし、それでは忌々しい予備校の思う壺ではないか。
そもそも予備校が商売抜きで本当のところを見せてくれるはずなどないでしょ。
今の時代ほど、本質を見極める資質が求められている時代はない。
そこで私は敢えて成功の鉄則として、人間のやる気をくすぐる「少ない」という鉄則を据えたい。
「少ない」は、人間の本能的な「やる気」を引き出す魔法の方法である。完全網羅を商売にする予備校への弱者人間の挑戦だ。
食べ過ぎは体を病気にする。脳だって同じはずだ。
「少ない」というのは、「少ない」から工夫が生まれる。「少ない」から最大限の力を出そうとする。「少ない」から必死となる。油断がない。逆に、多いから油断する。多いから全てを活用しきれない。多いから工夫の必要性がなくなる。つまり、頭を使わなくなる。
世の中に完全なんてない。だから、不完全だけれど最低限「必要」なものだけを勉強して、その少ない知識を最大限に活用することを考える。それが、7回繰り返しだ。
予備校は小出しで騙しの手口を教える‼️
模試で騙される。あ、そうか、そういうことかと得心する、これで一つ利口になる。
そんなことなら、最初から手口だけを一冊にまとめろ‼️ と言いたい。しかし、それでは商売にならない。だから予備校は小出しで手口という商品を売る。諸費者はその度に割高のカネを出す。そして「あ、なんだ、そうなんだ」と手口を学ぶ。その度に、自分の実力がまだまだ遠い先にあることに落ち込む。これが予備校の手口だとも思わずに。実力はコツコツと努力しながら地道につけていくものだと信じている。いや信じ込ませられている。
もし予備校が一気に手口を公開したら、というか問題から手口を学ばせるのではなくて、初めから手口を集めてその適用マニュアルを公開したら、それで救われる人が続出するであろうが、そうはならないのは、当たり前である。予備校には自殺行為だからである。
才能がなければ努力だけではどうにもならないが、才能があっても努力しなければどうにもならない‼️
試験とは、才能があっての話しである。
一通りの同じレジュメをやっても才能のある者とない者とでは、その差は如実に成績に反映される。
才能のない者の親はこの当然の理で悩む。才能がないから仕方ないと思わない。まず才能がないということをほとんど心情的に認めない。だから悪いのは塾だということになる。こうしてこの親子は塾を彷徨うことになる。流れ着く先は決して希望に満ちたものではない。塾が悪いとするのは、「他人のせい」、自分は間違ってないという大前提があるからに違いないが、賢い親なら少なくとも自滅の道は辿るまいに。
世の中というのは、残酷なものである。弱肉強食は野生動物の世界だけではない。才能ある者が勝ち抜く社会である。
才能絶対社会の中で、才能のない親子は、勝ち抜き戦に参加する限り、解決しがたい苦悩に身を置かざるを得ない。
究極の試験の技術
テキストを読むコツ
中間、期末の理社の勉強が高校入試に役立たない訳
マーカー多用、線引きの多用の功罪
短期記憶は二週間で消える、その2週間も繰り返し見直すから維持できているだけのことである。
マーカーは短期記憶のための手段であることを忘れてはならない。
高校入試を意識した理社の勉強とは、テキストを読み、文章の内容を図化することである。
図化とは、言葉を矢印で表すことである。イメージとしては、三権分立の図を思い出してほしい。読んだらなんでもかんでも矢印を、使って図化して覚える。図は、テキストの空きスペースに書き込むことでいい。この方法は記憶を長期記憶とする最良の方法と思う。言葉は四角で囲む、四角と四角を矢印で結ぶ、そういう感覚である。
→というのは、実は魔法の記号だ。これだけで関係が表せるからだ。理解というのは、突き詰めれば、最後は、ある概念と他の概念を矢印で結ぶことである。
試験本番のとき、難問に関わると、没頭すると、時間が消える。
対策 各問を解く前にいちいち開始時間を書き込む。たとえば、1020なら10時20分開始だ。それから問題に没頭する。何分で解くか、インプットしてから解くのだ。これは時間制限があたりまえのゲームと同じだ。皆さんは、時間制限の中で時間を気にしながらゲームに没頭したことを思い出すだろう。試験も同じだ。時間制限ある試験というゲームに没頭するためには、予め時間を設定してから解き始めることだ。
受検直前期に気を緩めた生活をしていると、本番で極度に緊張する、頭が真っ白になることを知っていますか。
だから、本番直前期は、テレビも見ない、人と話さない、不安だからといくらでも人と話してしまうが、話せばそれだけ心を緩む。直前期の小6が和気藹々としていたら要注意だ。試験は孤独な闘いである。自己を緊張の世界に追いこんで決して気を緩めない。ある小6が「わからない」というとき、別の小6が「わかります。教えましょうか」と言って私が止めるのを聞かず教えたことがあった。その余裕はいったい何なのか。気を緩めてなければそういうことはやらない。自己を緊張の世界に追い詰めていく、そういう子なら誰とも喋らず孤独の世界で来る本番に備えて気を養っていることだろう。わたしは、「紅白見たら落ちます‼️」とよく言ったものだ。いつも真摯に自分と向き合って日々を緊張した精神で過ごす、それが戦士である。
勘違い、ミスは、試験開始から5分までに起こす これも知っていほうがいいでしょう。
消去法の解き方
各肢に記号でマークする。
もしかしたら正解しかもしれないと思ったら△、誤りかなと思ったら、/ の2種類。完全な誤りと確信したら、/ →×にする。正解との確信があれば△を〇で囲む。ただし、正解ほど確信が持てないものだ。だから通常は△となる。
複数ある△を比べて、これが正解と確信したら、△を〇で囲む
究極の消去法
出題者の心理を解析せよ‼️
例えば、5肢から消去する場合を考える。出題者は、嘘の肢をそれはそれは苦労して作ったであろう。嘘の肢は、正解の肢を念頭に作るはずである。実際に、消去法を使った人なら経験があると思うが、たいてい2つに絞れるものである。そのとき、その肢は、隣り合わせの肢ではない。例えば、③と⑤とか、②と④のように飛んでいるはずである。どちらを選ぶか。たいてい後の肢が答えとなる。なぜかわかりますか。考えても見てください。出題者は、それは苦労して作り上げた。そんな肢を正解の肢の後に置くだろうか。その苦心の嘘の肢をまず正解の前に置いて受検生を迷わせたい、そう思わないだろうか。もし正解肢を前に置けば後から出てくる、苦労して作った正解らしい誤りの肢が全く冴えない肢に見えてしまう。それでは出題者は不満でしょ。だ。
それから出題者は、肢を作るとき、まず正解肢を作る。そこからその正解肢を前提に誤りの肢を作っていく。誤りの肢を作るとき、出題者の頭の中には、常に正解肢がある。正解肢の内容と反対の内容にしてみようか、似た表現だが意味が違う、紛らわしい肢をに仕立てようか、あるいは、本文の文章を借用するが、問いの主旨とは違う、しかし誤解しやすい部分を引用するとか、とにかく誤りの肢を作るのに相当悩むはずだ。また正解肢は、本文にある言葉をそのまま使うことは避けるはずだ。そんなことをすればたちまちバレてしまうからだ。だから正解肢ほど本文からは判断しにくい作りになっている。できる限り曖昧に表現を抽象化する。しかし、正解である以上本文に述べていることと本質的には同価値のことを述べていなければならない。
だから正解肢は、断定できないのだ。だから△をつけておくしかない。間違いらしいのには、/ をつける。まだ確信が持てない段階だから×にはしない。そうするとたいてい2つに絞られる。というか2つ残るのだ。判断に迷う2つが残る。このとき、この2つの肢の関係を仔細に比べる。もしかしたら、2つの肢に論理的関係があるかもしれないからだ。一方が必要条件になってないか、十分条件になってないか、つまり、一方が他方の前提となっていないか、である。もし論理関係がなければ、本文と比べる勝負だ。先程も述べたように、それでもわからなければ、後の方を選べ。これは出題者の心理を考えてのことだ。