2020.05.04
竹の会の正体(4)
竹の会は、高校受験専門塾である。
昭和60年10月竹の会の始まり。ガリ版刷りのハガキに書いた募集に、代々木中2年の女子3人の母親たちが、関心を持ってくれた。ほんとうにたまたまである。なにしろ、マンションの狭い一室、まだ机と椅子も十分に揃っていなかった。わたしの持っていたのは、武蔵と開成の過去問集2冊だけだった。東京で塾をやるというのでまずこれを解いてみた。そういう中で、三人のお母さんたちは、わたしの夢を真摯に聞いてくださり、三人の女子生徒を私に託してくれた。中2の9月のことであった。早速わたしは中野にあった中古の事務用品屋に行き、長机と折り畳み椅子を購入した。コピー機は、キャノンの家庭用だった。代々木中学の教科書を揃えて、一通り読んだ。英語は教科書を使い、数学は気に入った駿台予備校の問題集と代ゼミの佐藤の数学というのを使った。三人の女子生徒は小田急南新宿の近くに住む仲良しだった。授業は一回2時間週2回という、本当に当時の一般的な塾のカリキュラムだった。ところが、わたしの授業が代々木中学で評判になった。たちまち代々木中学の生徒たちが入塾を申し込んできた。一か月も経たないのに、わたしは、週に4クラスの授業を回さなければいけなくなった。1クラスは4人のはずだったが、8人になって、親から苦情がきた。あの当時は何もかもが初めてで、親からのクレームばかりだった。12月には、一年後に青山学院高等部や市川高校に合格することになるS君が入塾した。個人指導だった。彼の指導を通じてわたしは東京の高校受験の何たるかを学んでいった。彼の指導で、予備校の問題集を使い、過去問数十冊を解いた。彼が合格したことでわたしは東京の高校入試のレベルを掴んだ。例の3人娘たちは、一人は都立駒場へ、一人は都立目黒へ、そしてもう一人は国学院久我山へ進んだ。その他一期生と言われた子たちは、都立大附属、その他の私立へと合格していった。こうしてわたしの東京における高校入試の本格的な指導が始まることとなった。来る日も来る日も授業に明け暮れ、過去問を解き、参考書を読み、塾用教材の採用と挫折、評判の英語塾に翻弄されたり、当時多かったコストパフォーマンスにこだわる親のクレームに悩まされた。高い月謝を払ってるのだから成績が悪ければ塾が悪い、という論理だった。子どもが怠けで勉強しなくても悪いのは塾だった。カネ払ってるからという論理は全てを正当化した。竹の会が評判になるに従って、いや申し込んでも席がないということで断ることが多くなると、親たちのクレームも減っていった。コストを言う親は毎月部活で何日か休むとそれを数ヶ月分合算して何か月分をただにしろと要求してきたり、冬期講習に毎日1時間ほど出て、出なかった分を何か月かに振り分け、出席しますと一方的に宣告してきたり、また夏の予定を自分で組み、2時間10回を適当に取って、「いくらになりますか」などという親もいた。わたしは様々な母親たちの勝手な節約論理に振り回されてそのたびにほとほと精神を害された。わたしはそのたびにきっぱりと断り、退塾を宣言してきた。わたしには嫌な思いをしながらやる気持ちはなかった。今ある竹の会の規約は全てそういう母親たちの無理難題から出来上がっていったといっても過言ではない。
竹の会が始まって間もない頃はわたしも何もわからないので、塾専用教材というものに惹かれた。大久保にある教科書会社にはよく通ったし、新中学問題集で有名な出版会社にもよく買いに行った。2、3年もすると、取引塾として認められて、faxで注文できるようになった。さらに塾専用教材を卸す会社とも取引を許された。今では、様々な教材会社と取引できるようになったが、当時は新米塾には大変なハードルであった。
市販教材では、わたしの思うような授業、指導ができない、と悟り、わたしの使い勝手のいいテキストを作らねばと切実に感じていた。何年かかったのだろうか。わたしは、数学全編について、単元ごとにテキストを作った。街の印刷屋を探してようやくテキストが完成した。印刷屋は何軒か変えた。これでようやくわたしの思い通りに授業ができると喜んだ。不思議なことに、毎年繰り返される高校入試では、必ず合格させていた。都立駒場と都立新宿、そして都立青山は竹の会の定番合格校だった。わたしは過去問を使うのが多分うまかった。毎年買い足していった過去問は、夥しい数に達していた。受験の学年、つまり中3には、その過去問をコピーして、通年単位で解かせた。時間はかかっても考えさせた。このやり方が後年「考えさせる」指導へと進化していったのかもしれない。わたしは過去問コピーにそのままわたしの解法を書き込んでそれをコピーして配布したり、藁半紙に解いたものを渡したりした。数学は、ほかにも受験用のテキストを何冊か書いた。
都立高校受験では、国語は平易で、特に対策を必要としたことはなかった。私立の場合は、過去問を解かせた。
理解と社会は、3年間のまとめみたいなテキストを教材会社から購入して、それをやらせた。反復して何度も繰り返させた。都立の理科、社会は、これで80%以上は取れるようになる。ところが、中には、それでも50%前後という生徒がいる。これはもともと定期試験でまともに勉強してこなかった子たちに特有の現象であった。定期試験で普通に90点を取る子とか、内申5の子たちについては、わたしのやりかたで問題なかった。もっとも7回以上読み直しをしていないとやはりダメで、そういうときは、いろいろな方法を試してなんとか本番では成功させてきた。だから問題は普段から理社をやらない子の指導である。わたしはその対策として、中2の夏から理社のテキストを配布して、取り組ませた。中3になるまでに目鼻をつけておきたかったからだ。しかし、中学生というのは本質怠け者であり、わたしの期待通りにやってくれる子はほとんどいなかった。だからいつも直前になってわたしがかかりきりで調整してなんとか本番を成功させるという綱渡りのようなことをやってきた。そのときにわたしがやる方法というのは多様であった。要点集をやず7回読ませて覚えさせるとか、鉄板問題集をやらせるとか、過去問をコピーして毎日解かせるとか、年表の語呂合わせ集を渡して覚えさせるとか、コンパクト要点集を毎朝、毎夜読ませるとか、典型予想問題を与えるとか、それはそれは考えついたすべてのことを実行させた。
国語ができない生徒には、最初の頃は、都立程度の国語ができないのはやりようがないとあきらめていた。が、どうしても60点しか取れないのはやはり問題で、仔細に調べてみると漢字だけで10点は損をしていること、選択問題で間違っていることなどが、わかり、本文との突き合わせ、つまりは本文と選択肢との対照、本文を根拠にしてなくて、主観的な根拠で選んでいることがわかり、国語の解き方を執筆する必要に迫られた。
それから国語で有名な、予備校の先生数人の本を読みまくり、高校受験に即したわたし流のレジュメを書いた。これは平成28年の都立戸山合格者が突然国語偏差値70を超えたことでその威力が実証されたことになった。かれは本番でも70点を取った。
今、小学生がやっている「読解の素」というレジュメがあるが、これはその精神に基づいて執筆したものである。
わたしは、理科社会は市販の、というか塾専用教材を利用しているが、実は、ほとんど使ってはいないのだが、理科と社会の高校受験用レジュメも書いている。ただ市販のでいいかな、という考えから、そのままパソコンの中で眠っている。
実は、昔、中学受験のための理科、社会も書いた。それも日の目を見ることはなかったが、最近は、課題の一つとして、「教養の社会」というシリーズで社会を公開しているし、「理科必要十分条件の研究」というタイトルで、今年の小石川合格者には、使ってきた。
わたしは、いつも竹の会を超一流の塾にしたいとそのことだけを夢に必死に竹の会のために明け暮れてきた。わたしのすべての生活を捧げてきた。寝ても覚めても竹の会のことを考えてきた。
あれからもう35年の歳月が流れた。竹の会を去る日が近い、最近はよく思う。だから今いる子どもたちをわたしの持てるすべての、そう、わたしの35年の間に培った治験の全てを駆使して導きたい、命尽きるまで、竹の会を終わる、その日まで、心に誓っています。
竹の会は、高校受験専門塾である。そう言わせてください。だって、そういう思いで頑張ってきたのですから、そう言わせてください。でなければ竹の会がかわいそうです。わたしの竹の会、わたしと生まれて、わたしと歩んできた、竹の会が、わたしと別れる日まで、頑張ります。
竹の会旧表札
新渋谷教室
次回予告
竹の会の正体(5)
竹の会は、都立中高一貫校専門塾である。