2022.11.10
竹の会の軌跡と奇跡
竹の会を始めたのは、昭和60年(1985年)10月のことでした。渋谷区の初台坂下の近くでした。近くには代々木中学がありました。今年(令和4年)の10月には、38年目に入りました。令和6年10月には創立40年目になります。わたし一人の個人塾がここまで続けられたのは奇跡です。
竹の会の指導は、変遷を辿りながら、今のような指導形態になるまでにかなりの時節を要しました。よく「竹の会は進化する塾だ」と言われました。
わたしの指導哲学(コンセプト)の根幹はずっと変わっていないと思います。
指導方法の変遷
竹の会は、最初から高校受験対策塾でした。主として渋谷区の代々木中学、上原中学の生徒が来てくれました。地元密着型の個人塾でした。最初は、教科書を教材として、駿台や代ゼミの予備校出版の問題集を利用しながらの授業で「教える」「理解させる」という、世間一般の塾と同じ形式を取っていました。最初は、よく教材で悩みました。第一教科書によく教材を探してに出かけたことを覚えています。しかし、受験の学年になると、学参という出版社の出していた過去問集を軸として指導しました。過去問を使って指導することには、わたしの大学受験の経験からくる確信みたいなものがあったのです。この過去問を使った指導は、どうしても「考えさせる」ことを重視しましたから、後年の指導形態を彷彿とさせるものがありました。しかし、基本は私の即興の授業でした。生徒たちはわたしの授業が大好きでした。竹の会の授業は笑いの絶えない授業でした。親御さんからは「先生、今日は授業ありますか」と確認の電話があったものです。それほどわたしの授業は人気があり、近隣の評判となったのです。
船出したばかりの竹の会丸は、いつも嵐の中にいた記憶しかありません。苦境、苦難を乗り越えながら、未来を夢見て、進むという航海なのではなかったか、と懐古しております。私はいつも苦境に立たされ、苦渋の決断、つまり操舵をしてきたように思います。いつも予期せぬ、想定を超えたトラブルが起きる、それが塾の仕事なのだと悟るまでにかなりの時日を要したように思います。竹の会丸は、幾度も暴風雨の中に突っ込み、なんとか命拾いしてきたように思います。合格発表という、ほんのひとときの穏やかな日が、どれだけ癒しになったことか。塾の仕事というのは、365日気を抜けない、気を張っていても想定外の事件が起きる、そういうものでした。
昭和61年は、第1期生の中3の受験指導、竹の会初めての体験でした。わたしが、頼るのは、過去問しかなかったのです。朝から晩まで、いや夜中から明け方まで、過去問を解いていました。何か、確かなものをつかめそうな気がしたのです。溺れるものは藁をも掴む、と言いますが、わたしには過去問はまさに藁でした。
昭和62年2月、3月 第1期生受験
青山学院高等部合格、市川高校合格、都立駒場高校合格と合格の喜びに包まれた時でした。
この時の竹の会には、過去問以外なにもなかったのです。過去問だけで結果が出せる、それがわかりました。わたしは狂ったように過去問集を集めました。学参ものから、声の教育社、その他の出版社のもの、とそれはそれはすごい量でした。わたしは、どこそこの高校の問題はどういう問題が出されるのか、即座にわかるほどに精通していたのです。だから教材はなくても、どういう問題を解かせて力量を測りたい、というとき、即座に、書架から過去問集を取り出し、「これ」という問題を見つけて、即コピーして、解かせる、そういう手法をとりました。これは後年「過去問合格法」と名付けられましたが、竹の会伝統のやり方となりました。過去問に精通したいたからこそできる技だした。後年レジュメ制作において、その経験が生かされたのだと思います。わたしの過去問選びは的確であったと思います。現在竹の会の高校入試数学対策の定番レジュメ「過去問題撰」は70問に詳細な解説を付したものですが、高校入試数学に必要なあらゆる解法を網羅したものとして不朽の名作となりました。だからこれを7回以上回した受験生は、都立共通なら90〜100点、私立なら國學院久我山レベルだと90点以上という点数をなんのブレもなく取ったのです。もちろん開成高校や筑駒は別メニューです。わたしには究極の過去問合格法と言われた神技がある、というのが、私の自信の根拠になっていた、と思います。かつての過去問合格法はわたしの中で昇華され、レジュメ制作に縦横に発揮されたと思います。
初期の頃は、授業型を取っていました。教材は、第一教科書で仕入れていたと思います。やがて「新中学問題集」を出している塾や学校を相手に教材を販売する会社と取引できることになりました。今のように塾専用教材を販売する何社もの会社と取引できるようになるのは、それから数年を待たねばならなかったのですが。当時は、今のV模擬やW合格模擬がまだ業者テストとして学校で実施されていた時代です。難関高校なら河合塾や代ゼミに行く時代でした。都立も学区制が敷かれ、渋谷区は21グループに属し、トップに戸山が君臨していた時代です。
公立中のほとんどの生徒はどこかの都立に行くという時代でした。塾に行くのも、多くは中3になってからというのがほとんどでした。もちろん難関をめざす生徒は、中1から河合塾や代ゼミに通っていました。
平成に入ってから、すぐ、わたしは、竹の会のオリジナルテキストの制作を急務として、数学と英語のテキストの執筆活動に入ったのです。この時期に読んだ英語文献は、膨大な量に達すると思います。数学は、教科書を軸に、過去問から制作しました。ただし、この頃作ったテキストには、解答まで手がまわらなかった。だから解答がなかった。自分の作ったものだから、解答はわたしの頭の中にあったわけです。それで間に合った。受験には、過去問集を使うから問題はなかったのです。この頃、過去問集は、声の教育社のものに変わっていました。他にコピー用に作られた過去問集を利用したりもしました。
英語は、「英語指導案」として、制作したものが、竹の会の定番テキストとなりました。英文解釈は、日栄社の「高校用 初級英文解釈」を永く使ってきましたが、絶版となってしまいました。幸いレジュメとして残しておりましたので、今でも導入に使うことがあります。今はこれも絶版ものですが、研究社の高校用英語副読本シリーズ全5巻の中の3巻まで手に入れることができ、これを利用しています。開成高校や筑駒高校対策の英語本は、何を使ったかは、お話しできませんが、とにかく開成志望者中1番を取ったということは事実です。
英文解釈については、都立西の生徒や青山学院高等部の生徒に大学受験を指導したときは、なぜか気に入った、東京大学教養学部で使われていた英語教材を使いました。東大の数人の先生たちが制作したもので、もちろん訳なしでした。だからわたしが訳をつけてから、指導していました。思い返すと訳すのが、なかなか大変だった記憶があります。研究社の新永和中辞典をたよりに時として英文法書をめくりながら悪戦苦闘したものです。その時思ったのは、やはり5文型の深い理解が大切だということでした。それで竹の会の子たちには、とにかく徹底して5文型の理論を叩き込むようにしています。私の座右の書の一つが、「5文型」の参考書なのも不思議ではありません。訳せない英文に出会うとすぐこの参考書。開きますね。
開成高校、筑駒高校のための指導は、わたしの受験脳を最大限駆使しての仕事でした。合格への道をつけたことで、わたしは、さまざまな具体的、効果的方法を編み出しました。国語対策、理科社会対策に私が能力を駆使したのは言うまでもありません。わたしはこの戦いを通して、この指導を通して、さまざまな合格のノウハウを考え出したのです。数学はまったく苦労していません。もともと私の専門は高校数学だったからです。そして英語も同じです。わたしが大学受験した時の方法そのままでしたから。
私は高校受験の専門家です。しかし、今は、小学生をスーパー小学生にする専門家ということも付け加えることができるのかな、と思っております。
わたしの指導が、機能すれば、それは、子どもにとって、大きな転回をもたらすこと、それは確かですから。