2018.09.25
おはようございます。お休みがあるともう一日仕事しています。やることがいっぱいあってもう終わりが見えません。最近渋谷教室の環境が変わり、「渋谷ストリーム」という遊歩道、渋谷駅からちょうど渋谷教室までが遊歩道でつながりまして、便利になりました。これからさらに整備されていくでしょうから、ますます環境がよくなるのではないかと期待しております。
それにしても9月ももうあと1週間を切りました。受検生のみなさんに遺されたのは3か月、高校受験だと4か月になりました。いよいよですね。
◎竹の会創立34年目に向けて
結局、大手塾は、進学塾でも、中高一貫校塾でも、大多数の子どもたちには、百害あって一利なしということか。 かつて、平成元年頃には、中学受験が盛んで、四谷大塚と日能研が鎬を削っていた。ほかに学習指導会というのもあった。今のようにサピックスや早稲アカはまだなかった頃の話しである。竹の会は当時は高校受験専門でしたが、それでも中学入試の小学生が年に一人二人と来た。当時の私はまだ過去問を解くことに夢中で、竹の会独自の算数理論が確立するのはまだずっと後のことだった。よく大手で落ち溢れた小学生が来た。親も子も子の能力を考えないで、志望校は高く、それを大手が叶えてくれると信じて疑わなかった時代であった。大手に行き、落ちこぼれる。たいていの親子はこのパターンだった。当時から四谷大塚の予習シリーズを信頼する親ばかりだった。しかし、竹の会は、過去問合格法にこだわった。それにしても大手には人が集まった。大手でやれるのは、ほんの一握りの天才だけだというのに、世の親たちは、自分の子は特別という勝手な思い込みをなんの根拠もなく信じていた。後年公立中高一貫校がスタートして、わたしは、学校の優等生と言われる子たちの学力の低さに驚かされた。割合を完全に理解している子は皆無に近かった。計算力もなかった。当時から中学受験をやる家庭というのは、裕福でなけれは無理だった。それが公立中高一貫校がスタートすると、特に女子が、堰を切ったようように、ワッと受検をするようになった。わたしは、学校の普通の子たちが、まるで割合を理解しない、できないという現実に驚き頭を悩ませた。私の算数指導の研究は、そういうところから、始まった。兎に角平成20年前後から、私は小学生を指導する。特に、割合を説く方法について、取り組み始めた。寝ても覚めても、考えた。思いつくと、すぐレジュメにした。そしてすぐ子どもたちに試した。こういうことを私は23年までは続けていた。23年は、小石川と桜修館に合格者を出した年だが、あの時は、過去問合格法と「適性虎の巻」を執筆して対応した。「適性虎の巻」は、ワードで製作したもので、初めてのレジュメによる攻略を意識し始めたと言える。23年には、私の書き溜めた原稿も相当な量になっていた。これらはワードではない。わたしが愛用する秘密の製作ソフトだ。23年に指導した、算数の得意な子たちから、評判のよかった、割合のミクロマクロによる構造解析をさらに進化させて、竹の会の算数体系は完成していった。
私はかつて大手進学塾で落ちこぼれた小学生をたくさん見てきた。この中には、中学受験で失敗し、高校受験で、早稲田実業に合格した鈴木君のような、日能研で芽が出なかった、優秀な子もいた。どんなに知能が優れていても、大手で潰される子もいる。況してや普通の子が、いやたとえ学校の優等生クラスであっても、大手では潰されるのはわたしにはあたりまえの見識であった。大手で伸びるのは、もともと塾などなくても受かる、天才だけである。彼ら彼女らは決して大手が受からせたわけではない、自分の天才で受かったのである。こういう天才には、割合を苦労して教えることもない。かれら彼女らは苦もなく理解してしまうのであるから。大手の講師には、普通の子、学校の優等生さえも教える能力はない。理解力のある天才に、データと教材を渡せば彼らの仕事は終わる。彼らは自分の頭で理解してしまうから。大手の講師ほど楽な仕事はない。普通に説明すればわかってしまうから。わからないのは、天才以外、大手にはそういう子たちは、合格実績を作ることはない、ただ経営を支えるお客様ということであるから、いかに親たちを洗脳するか、それだけである。 大手の落ちこぼれは、指導したくない、扱いにくいから。大手が、普通の子たちを鋳型にはめてしまい、使いものにならなくしてしまった。 だから、わたしは、大手絶対信仰の親たちが占める、中学受験の世界から、撤退した。 だから、竹の会は、私立受験生は相手にしない 。公立中高一貫校がスタートしたのは、平成18年頃のこと。たちまち公立中高一貫校のための大手ができた。学校の凡人を大量に集めて、合格を煽動した。多くの親がたちまち洗脳されていった。公立中高一貫校の大手だって本質は変わらない。天才が受かっているだけなのだから。始末が悪いのは、学校の優等生クラスが、公立中高一貫校の大手に行って潰されることだ。公立中高一貫校の大手だって、講師は、何も教えていない。知識を振り撒くだけ。割合を理解できない子は理解しないままに、過去問を真似た類似問題を解かされる。 そんなことやってたら、一番大切な時期に、一番頭の柔らかい時期に、思考という、自由なスタイル、自分のスタイルを作り上げることなく、大手の鋳型にはめ込まれてしまう。それは、思考という空間のない、浅い鍋、そんな鋳型に、自分の子を流し込む親の気持ちが知れない。大手、大手と喧しいが、自分たちのやっていることはわかっていない。 あなたたちは、子どもに思考を根付かせることを蔑ろにしてきた。大手の浅い鋳型に子どもを無知なままに流し込んできた。 鋳型で作られた子に竹の会ではなすことはない。 あなたたちは、竹の会の真実、いや子どもに何かを教えるということの真実を何も知らない。あまりにも無頓着すぎる。大手に見事に洗脳されて、大手のやり方を常識としてその前提で見る。これだけバイアスのかかった多数にわたしは囲まれて、竹の会は、孤軍奮闘してきた。無名の竹の会が、東京23区の、良識ある、少数の皆さんに、助けられて、確かな、信頼を積み重ねてきたのは奇跡的なことでした。わたしの指導が、指導される側の視点に立った、たった一つのこと、子どもたちが自ら考えることのできる環境を整備してやること、そのことが、子どもたちに勉強のスタンスを作り上げていくこと、そのことをのみひたすら目指したものだということを、どうかわかってください。
▶︎大手というのは、マニュアルがなければ、機能しない本質を持っています。大きな組織を動かすというのは、そういうことです。駅そばに置いた各教室の授業がバラバラなら、大手の方法に統一的なものはないことになる。だから大手の講師、つまり学生アルバイトさんたちは、最初にマニュアルを教えられます。マニュアルには、やり方、解き方が、書いてあり、彼ら、彼女ら、つまり学生講師は、それを予め覚えて授業に臨むことになる。もちろん学生の各個性はありますが、彼らは、生徒に「媚びる」ようにマニュアル化されています。大手の講師というのは、お客様は神様です、と吹き込まれているから、おしゃべり、いたずらも軽く注意はできても「退塾しろ」とは言えない。彼らにはそういう権限は与えられていない。どころか、彼らは毎日生徒の機嫌をとるように指導されている。誰かが休めば、授業の後、必ず電話が義務付けられている。 個人塾だとどうかといえば、たいていは大手のマニュアルを真似ている。テキスト、授業、講師の三要件は絶対なのである。個人塾の先生は、もちろん退塾させる権限はある。しかし彼らには退塾は死活問題だ。だから退塾させることはほとんどない。どころか生徒の機嫌をとるし、親に阿る。親がクレームしてきても頭をぺこぺこ下げて従う。意味なく平謝りで親の言いなりになる。 塾というのは、バカは退塾させなければ、本来の職務を全うできないのである。親に阿ってはいけないし、生徒に媚びてもいけない。それは自壊の最短道となる。大手の講師は、優しいというけれど、子どをたちを叱れないのである。いつも子どもや親に悪く思われないように、気を使っている。 授業は、画一化されているのは当たり前で、画一化には、テキストという道具が必須である。この道具にカリスマ性を持たせることも常套手段である。このテキストで受かる、このテキストでなければならないと云って、売りつける。大手は、教材の優れたことを吹き込むしかない。教材が授業の質を左右するからだ。あなたたちはは、こういうところに、自分の息子、娘を丸投げして、「大手だから心配ない」ともう安心しきっている。かつて竹の会が、入会試験を始めた頃、よく試し受検の母子、たまには父子がやってきて、迷惑した。この親たちは、最初から、大手に行くことは決めていて、やってくる。中には、迷った父親もいたけれど、子どもが大手の講師が好きなので大手にするという父親もいた。入会試験に合格して、さっさと消える母子がいた。入会試験が始まったばかりの頃はまだ入会試験が易しかったこともある。
元代々木教室時代には、確か平成21年のことだったと記憶しているが、大原の「志望校別コース」とかいうのに行った母子がいた。確か、父親の転勤で名古屋に行くとか言ってやめたけど、竹の会の子3人が、あの年、日曜 の志望校別コースとかにこっそり申し込んだという事件があり、親たちが、酷い成績に慌てて詫びてきたことがあったが、その時に、件の名古屋にいるはずの子がいた、という目撃談がもたらされた。このように、大手の、「小石川対策コース」を受ければ、もう受かった、受かると思うほどに大手のマニュアル商売は、親たちには効く。結局あの年、22年は、杉山太一君が、桜修館に受かり、改心して過去問合格法をやり直した男子が、両国に合格した。4人受けて2人合格した。大原の講習を併用した子たちの他の2人は、過去問の解き直しどころか、解き直しをするにも過去問が終わりきれずに撃沈した。竹の会は、あの頃は、まだ大手のまやかしの影響強く、竹の会は、その大波によく晒された。大手の大宣伝に東京の親たちは見事に踊らされる。その軽さには、こういう親たちに竹の会の良さを説く虚しさを悟るほどである。 そういうわけで、渋谷教室には、ほんとうに生徒は来なかった。親たちの行動心理は、竹の会は知っている、しかし、近くの大手に行く、である。たいていはこれだった。だから、小4の時に大手にいて、小5になって来た、という子たちがよくいた。つまり一端は大手に行き「よくない」と思ったわけである。とにかく、あまりにも生徒が来ないから、こういう子たちも受け入れるしかなかった。しかし、やはり大手に弱い親たちを相手にするのは大変である。試験に間に合わないという懸念とか、習い事、稽古事、家族旅行などを優先させる家庭ばかりだったが、黙認するしかなかった。竹の会に小4が来てくれるということはほとんどなかったし、小5さえも来なかった。ガランとした教室、受検生は、3人、多いときで5人だった。私は、3人中2人合格、5人中3人合格とか、やったけれど、たまたま竹の会に来た子たちを合格させるのだから、大手のようにできる子を集めての結果ではないから、これは奇跡に近い。塾としては、生徒が集まらなければ、廃業するしかなかった。いや渋谷教室を始めたときは、もう私には何年も残されてはいない、だから思うようにやりたいと決めていた。だから生徒が来なければやめるだけ、それは決めていた。もう歳ですから、それでいい。 渋谷教室スタートの時、お祝いに駆けつけてくれた鈴木君が、「先生、竹の会には、素晴らしい教材がたくさんあり、ノウハウがある。そういうものがいかされなのは、もったいないですね」と言って、残念がったことがあった。確かに、私が中学生のために作ってきた、夥しいレジュメは眠ったままだった。生徒が来ないから仕方ないない。それどころか、私の最も欲しかった小4早期の子たちが来ない。どころか小5さえもみな大手に行ってしまう。竹の会が学校説明会のある日を狙ってやったビラ配りで生徒が来ることは終ぞなかった。あれは、大手の独断場でした。
「先生、大手が嫌いですよね」とよく子どもたちにからかわれる。というより軽い親たちが嫌いなんですね。ですから大手にいた子は取りたくない。親の軽さの尻拭いなんかさせられた日にはたまったものではない。親は自分の選択のツケは自分で払うしかない。子の将来を結局どう翻弄したか、いずれ分かる時が来る。 竹の会の、私の指導が、達人域、名人域に達している、私はそう実感することがある。そして世の、具体的には、23区の親御さんたちに、正直に訴える、訴えてきた。ただ実際に、わたしの指導を受けた子、親が、「予想をはるかに超える素晴らしさだった」とか、「子どもが変わった」とか、「感動した」とか、「先生には、感謝しております」とか、「これほどすごいところとは、もっと早く気づくべきだった」とか、「本物の塾はほとんどない中で竹の会だけは本物だった」とか、それはそれはほとんどの親御さんから感謝のメールをいただいております。 生徒は集まらないけれど、これはわたしには勇気になります。 竹の会は、わたし一人しかいない、本当に小さな塾です。わたしの夢は、渋谷駅のそばに塾を出したかったこと、それは積年の願いでした。そして渋谷教室が、23区の皆さんに認知されること、「東京の、渋谷にいい塾があるらしいよ」、「渋谷に竹の会という、いい塾があるよ」と人々に知られるようになること、わたしはそんな思いをいつも胸に、2人とか、3人しかいないところで、がんばってきました。そんならその中から合格させてやる、そういう思いでがんばって参りました。 いつも言うことですが、そんなわたしももうと歳を取りました。昭和60年から始めた竹の会、1985年の10月からでした。だからこの10月で、創立34年目に入ります。長年の夢だった渋谷教室を開業できて、あとは竹の会が知られるようになることですが、その前にわたしの体力が燃え尽きそうです。もうもたないかもしれませんね。 わたしの竹の会、いつまで続けられるか、わたしにももう分かりません。 これまで大手には随分苦汁を飲まされてきましたが、東京の親たちは、基本的には変わらないでしょうね。