2018.04.14
◎神指導の域にある、竹の会の指導
計算指導において、進捗のよろしい子をとらえて、上級生が、その子のことを「すごく速くないですか」と言っているのを聞いて、わたしが訂正しておきました。確かに、その子は習得が速く見えるかもしれない、しかし、それはわたしの手順を踏まえた神指導のせいである、と。わたしは、一問一問、その解く過程を見ながら、いちいち修正指導し、難点を指摘し、改めさせながら、次の一問を指示し、また指導する、その繰り返しを一気呵成に進めているのである。その子はそれまで指導というものの本当のすごさをを知らなかったのである。巷の塾、学校のように、集団的に扱い、解き方を授業で示し、後は自己の練習の問題として終わらせる、そういう指導を受けてきたから、まともにできないのである。わたしが採用している計算テキストは、ありとあらゆる難易度の違う問題が1200問ほど収載されている。わたしはその中からその子の目下の難点をクリアーするのに適切な一問を選んで、解かせる、すぐにダメ出しをする、また解かせる、場合に応じて、問題の難易を変えながら、取り組ませている、いわば理解のようすを見ながら微調整している、そういうことが、横から見ているだけの子たちにはわからない、わけである。
竹の会では、思考力をつけるために、割合を徹底して鍛える。この割合のアプローチも世間一般の、いや学校も同じで、なんとも旧態依然とした教え方をしている、そのためにある水準のゾーンに属する子たちを本来なら理解の坩堝と化すところを、どうしようもない落ちこぼれにしてしまっている、そういう実態をひとつも改善できないのが、学校、既成塾なのではないか。わたしは、公立小のあるゾーンの子たちを救うために、何かいい方法はないか、と日夜長年にわたって研究を続け、遂には、画期的と言われる方法を発明したのである。竹の会の子たちは入会後たちまち、難度の高い割合の問題を自ら考えて解けるようになる。これは私立受験で大手進学教室に通っている子たちには想像もできない話しである。わたしは割合の問題を解く過程において、自然相乗的に思考の力をつけていくであろうことを想定している。子どもたちは、割合のレジュメ集に仕込まれたさまざまな、新たな思考の方法を学び身につけていくのである。縮尺、時計算、鶴亀算、などなどさまざまな考え方をこれまでのやりかたではない、新たなる思考枠組みで理解していく。比も割合の延長として、縮尺も割合の延長として、時計算も、速さも割合の延長として、みな理解できてしまう。算数の世界は、比で処理できない問題、つまり情報の少ない問題は、たいてい面積図で解けるというこも学んでいく。実は算数の効用というか、その素晴らしさは、直感型人間の排除、熟慮型人間への成長を可能にするところにある。わたしはテレビのクイズ番組で算数の問題が出て、1分とか、3分で正解を出す人たちを見て、かなり複雑な思いをしている。こういう人たちは、おそらく決まり切った解法というのを覚えていて、いわば直感的に解いたのに過ぎないのではないか、つまりクイズ型人間は、直感型人間に違いない、とわたしは思っている。未知の問題に遭遇したときにわかる。熟慮型かどうかが。大手にいた子というのは、例外なく、「先生、考えたけど、わかりません」とすぐに放り出す。これは不幸なことに、直感型ということが骨の髄まで染みこんでいるのである。まったく初めて竹の会にきたという、小3ないし小4が竹の会ではいちばん熟慮型にしやすいのである。大手というのは、その意味でかなり危険な選択である。かつては大手大手と迷いのない親たちをわたしはずっと見てきた。竹の会の入会試験を受けて、受かって、揚々と大手に行ったという親子も何人かいた。まったくわかっていない、とわたしはそのときに思ったものである。竹の会の指導というものがまったくわかっていない。あなたたちがわたしの説明で想像した以上に竹の会の指導というものは、実際に体験してみればその威力がわかるはずであったのである。そういう親たちというのは、教材がどうの、授業がどうの、時間がどうの、曜日がどうの、宿題がどうの、と自分たちの基準で、この塾はダメだと判断したのであろうが、わたしから見れば、程度の低い、何もわかっていない、無知な人間の行動にしか見えなかった。かつて大手に行って、結局失敗し、1年後、2年後竹の会への入会を懇願してきた親たちがいましたが、小3時の入会許可は無垢の子を育てるという意味があり、小5、小6になって大手で直感型に凝り固まった子をどうにかできることはない。時期すでに遅しということである。
いや成績不振で竹の会を止めていった中学生にも同じことがいえる。中学で成功するかどうかは、実は、小4の指導で決まっていたのである。中学になって成績不振に陥る子というのは、やはり時期を逸して、竹の会に来た子たちが多い。もともと知能の高い子は別として。大手で小4期、小5期を過ごして勉強で芽が出なかった子というのは、中学で潰れる蓋然性が相当高い。これは経験上の真理である。これに部活が輪をかける。高校受験もたいていはお決まりのパターンをたどる。部活と生徒会を口実に、真実は「わからない」から勉強から遠ざかるのであるが、結局都立には行けず、低偏差値私立に単願推薦でとにかく高校と名のつくところに進むことになる。後の人生は特に説明の要もないであろう。
高校受験も然りである。いや高校受験こそ神指導である。わたしの時期をとらえた指示をきちんと律儀に実行するだけでいいのである。居眠りして実行しない中学生など竹の会の想定にはない。レジュメを出せない中学生も想定にはない。わたしにはこうやれば戸山でも西でも受かるという手順がある。わたしの打つ手順を悉く無視するから失敗するのである。無視の理由が部活なら、失敗してもいたしかたない。わたしの指導には、部活にいくら時間を費やしても、わたしの指示を先送りしても、成功させるという想定はない。
◎わたしの手順どおりに実行すれば必ず合格させられる
今のわたしには小石川でも桜修館でももちろん九段でもわたしの指示を時期を逸することなく実行する子なら確実に合格へと導ける自信がある。根拠もないのに「大丈夫です」と言うようなそのへんの塾とはわけが違う。そのことがどれだけ真実性に担保されたものか、おそらく巷のお父さん、お母さんにはわかるまい。今、一番わかっているのは、竹の会に実際にお子さんを通わせている親御さんであろうと思う。わたしならたちまち計算の達人に仕上げるであろうし、もしそれが可能でない子ならそれはわたしには指導が無理なほどの子であるからである。わたしはそれはそれは苦しんで、驚異的な、いや画期的な割合習得プログラムを完成させた。思考訓練システムとしての竹の会の指導体系が完成したのである。わたしの手順どおりというときに、たとえば、夏は1日最低でも7時間は勉強してほしいとか、平日の理想は5時間であるとか、先送りをしない、つまり積み残しをしないこととか、そういうことは暗黙の前提である。部活の試合、稽古事、習い事の研鑽とその発表会、実家帰省、法事、旅行、とにかくなんでもいい、勉強がその都度置き去りにされるのは、手順どおりにならない障害にほかならない。もう一度言う。受かった人は、とにかくわたしの手順どおりに進めようと、もがき苦しんだ人たちである。