2021.11.02
◎竹の会の37年を振り返る 第2回
37年の歳月が流れた、無我夢中でこの道を歩いてきた。私に備わった、今の力は、37年の艱難辛苦がもたらした、竹の会の神様からの授かり物だ!
指導を極める!
我が心の変遷
「教え過ぎたら」成績が落ちた!
あるとき、体調の悪い時期があり、教える気力がなくて、大まかな指示だけしたことがあった。
定期試験の結果報告は、多くの子たちが、高得点を記録した。
これは考えさせられる、衝撃的結果だった。私は、受験の3年の指導では、過去問をコピーして、年度単位で解かせていた。何の迷いもなくこのやり方をとった。時間無制限で考えさせた。採点する、解けない問題には、私の解いた自筆解答を見せた。自筆解答は、藁半紙に書くのがほとんどだったが、コピーした過去問に直截書き込むこともよくあった。複数必要なときは原本をコピーした。原本はよく取り合いになった。私の解説は、円定規、放物線定規、色鉛筆を用いた、かなり芸術作品に近かった。子どもたちのコピー過去問はいつしか数百枚に達し、分冊して、紐で綴じた。子どもたちはそれをめくりながら解き直しをしたものだった。この方法は竹の会では「過去問合格法」と呼ばれるようになった。
この頃から、竹の会では、考えさせるということが、当然のようになっていった。私が授業するのは、新知識の導入や難問の解説の場合に限られるようになっていった。授業は平成10年頃までやっていたのではないかな。
時として舞い込んで来る中学受験生や大学入試の高校生の指導にも精魂込めて取り組んできた。
平成初期は竹の会自前テキストの開発に情熱をかけた。
平成初期、新中学問題集の存在を知ったのは衝撃であった。新中学問題集を出している会社によく教材を買いに行った。2年ほどして、課長クラスの方から取引契約を提案された。ようやくまともな塾として認知されたのかと思った。その後、ある教材卸会社から取引の話しがあり、これで教材だけは仕入れることが自由にできることとなった。
時は、ワープロ専用機の時代。私は、使い勝手の悪い東芝、NEC、日立などのワープロ専用機を悪戦苦闘しながら、竹の会テキストの執筆に没頭した。中学数学のテキスト、英語テキストと私は開発に没頭した。竹の会の特別化に日夜研鑽した。中学入試の依頼が来れば、過去問を買い込み解き尽くした。大学入試の依頼が来れば高校参考書を大量に買い込み勉強した。特に、塾専用教材会社から手に入れた高校英語指導用教材はかなり役に立った。かなり高価なので購入には迷ったが、結局全冊手に入れて、読み耽った。
数学はもともと得意科目だったので、最初から市販の高校用参考書を片っ端から読んだものだ。
依頼があればそのたびに私の専門性は深まっていった。
青山学院高等部の生徒を相手に数学講義をし、新宿高校、駒場高校の生徒を相手に、英語の授業をした。
高校入試指導も10年もすると首都圏のほとんどすべての高校の過去問は全て解き尽くしていた。しかも一つ高校で過去20年、30年に遡って解いた。これは指導する子が学年ビリからトップまで幅広い層に渡ったからである。特に、難関校と言われる高校については、こだわりをもって過去30年以上に遡って解き尽くした。
このやりかたは中学入試でも変わらず難関中学受験を依頼されるともう難関中のほとんどの過去問を買い尽くし、解き尽くした。
平成10年を区切りとして、私はパソコン時代への転換点にいた。
平成10年は、小6から指導してきて中3になった鈴木君が、早稲田実業高等学校普通科と商業科に合格した記念すべき年だった。