2021.11.08
竹の会物語3
英語で負けたくない‼️
昭和60年10月、私は教科書を使って授業した。近隣には有名な、評判の英語塾があるなどと知る由もなかった。昭和62年竹の会からは、都立駒場、都立目黒、都立大附属、青山学院高等部、市川高校などに合格者がでた。特に、竹の会は、数学がよくなる、わかりやすい、と数学で評判が立った。
すると近隣の英語塾から多数の子たちがやってきた。ほとんどは「数学だけでいい。(英語は通っている)」というものだった。
特に、有名だった英語塾は二つあり一つは上原中の生徒のほとんどが通っていた。週一、60分、月謝も○千円、そこに通う生徒は全員90点以上とる、5ばかりととにかく評判は高まるばかりだった。子どもたちは、先生のことを花王石鹸と呼んでいた。わたしが、あごが尖ってるの?、と聞くと、そうだ、という。それでわたしが「ペリカン先生か」というと、それから何か月かして、その塾はペリカン塾と呼ばれるようになった。
もう一つ幡ヶ谷に英検に特化した塾、講師が外国人という塾が人気だった。こちらは代々木中の生徒や笹塚中などが集まっていたが、高校生や大学生など幅広く展開していたように聞いている。
当時竹の会だけで英語を勉強するというのは、半分ほどだったかな。
わたしは、受験英語を一流にする、そう誓った。だから市販の英語参考書、問題集、塾用専用教材(西北出版が秀逸)、当時私立で人気のあったプログレスなど集められるだけ集めて、片っ端から読みまくった。また青山学院中等部で使われていた英語プリントを手に入れることができ、研究を重ねた。また学校の定期テストももちろん参考にした。
高校英語の参考書は名著と言われるものはすべて買い、じっくり読んだ。
こうして私は当時主流となっていたワープロ専用機を使って、英語プリントを作り始めた。何枚も何枚も、何十枚も、何百枚も、千枚、二千枚と作り続けた。狂ったように作り続けた。
打倒‼️英語塾! 打倒‼️ペリカン塾!
わたしは作ったプリントを整理、つまり体系化し編集することとした。
完成‼️ 「英語指導案」
これを叩き台に、わたしは、さらに細密なテキストにするべく肉付けしていった。
「英語指導案Ⅰ」「英語指導案Ⅱ」「英語指導案Ⅲ」と三部作を書き上げた。
今度は、これを軸として、さらに細かいプリントを制作していった。
他に書いた英語テキストは、「英語ポイント集」「英語合格本」「高校英語概論」「英単語400」「英語発音アクセント」など多数のテキストを制作した。
さらに、英語指導案三部作を集大成した、「新英語指導案」を発刊、さらに早慶を意識した「入試英語指導案」を発行。
また地道に制作を重ねてきた英語プリントは1000枚単位で完成している。
英文解釈のためには、高校用副読本を用いるのが竹の会の定番であった。わたしは、プログレスの副読本のための訳本、解説本を書いて、導入期に投入した。また、夥しい数の文法プリントの中には、特に、五文型に特化して書いたシリーズもある。
あれだけ人気を集めたペリカン塾もペリカン先生の引退で露と消えて今はない。
竹の会の生徒が、有名な英語専門のU塾に入るためにやめたことがある。ところが、当時竹の会の生徒たちは、代々木中学の数学5を独占とは言わないが、かなりを占めていった。また英語5をとる生徒も続出。U塾に行った生徒は英語だけではどうにもならず成績は下落して、一年後、あまりにもの竹の会の名声に、親子が頭を下げて、もう一度竹の会にと懇願してきた。私は快く受けた。その女子生徒は、駒場、青山学院大へと進んだ。
もう負けない。竹の会英語はもう負けない。わたしの艱難辛苦と臥薪嘗胆の決意はもはやどこにも負けない竹の会英語を作り上げた。私は、大学受験でも竹の会英語を問うて見た。慶應大学、早稲田大学と竹の会英語は突破してみせた。
近所の評判の英語塾に悔しい思いをした昔をわたしは思い出すとき、わたしの心を燃やしたペリカン先生に感謝している。ペリカン先生には会ったこともないのだが。あ、それからペリカン先生といのは大変失礼なことでしたが、とにかくわたしはペリカン先生がいたから竹の会の英語を一流にしようと頑張ることができたのだと思う。