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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

母の声が聞こえて来た!

2021.05.21

 

◎母の声が聞こえて来た!

 小学校に上がるとき、母と祖母が、ランドセルを買ってきた。馬革の、まるで使い古したベルトのような革だった。入学して級友たちのランドセルが牛革の黒なのを知った。母と祖母がどこからか、きっとバッタ屋みたいな店から調達して来たのであろう。祖母は頻りに「革がいい」と誉めていた。それでも私は気にならなかった。一年経って弟が、一年生になり、ランドセルを買ってもらった。牛革の立派なものだった。しかし、特に、気にならなかった。高校に合格したとき、母は、自転車を叔父から貰い受けて来た。わたしは使い込んだ、母によれば高級品なる自転車で通学した。そして弟が、同じ高校に入学すると、私が学校から帰ると、ピカピカの今流行りの変速型の自転車が届けられていた。それでも私は特に気にすることはなかった。しかし、わたしが、大工さんに中古の机を修理して、与えられたけれど、弟が入学すると、片袖の引き出しがついた、新品の机が届けられた。鈍感な私も流石に気がついた。弟はなぜいつも新品で、俺はお古なんだと。それからいろいろ思い返してみると、わたしがなにかを欲しいというと母は必ず誰かに貰い受けてきた。今考えると経済的なこともあったのだろうが、母は父に気兼ねしていたのではなかったか。私はいつも新品を抱えている弟を横目で見てきたのだ。
 うちが貧乏だということは私なりにわかっていた。父は国鉄の鉄道員で、29歳のときには、土地を求めて、家を建てた。だから我が家は家だけは真新しかった。祖母は畑を作り、野菜などほとんど自給自足だった。鶏だっていた。私が世話がかりで、餌を作り、卵を回収した。白色レグホン、チャボなどがいた。食べることに金がかかり、着る物まで手が回らなかった。
 でもいつも採りたての野菜、手作りの漬け物、白菜、梅干し、なんでもあった。家には本らしい本はなかった。勉強の環境なんかなかった。勉強部屋なんてなかった。
 母はいつも優しかった。私は母が大好きだった。祖母はいつも私のことを褒めてくれた。貧乏だったけど、私は、優しい母と祖母の愛に育まれて、過ごせた。父にはいつも殴られ、蹴られ、泣いていた。母と祖母がいつも止めに入った。夜裏の畑の柿の木に縛りつけられて泣いていたら、祖母と母の取りなしで、謝って許してもらった。なんで叱られたのか覚えていない。その程度のことだった。勉強を放り出して、真っ暗になって帰ってくる、それなのかな。私の遊び場は、いろいろあった。朝見神社の広大な境内、六枚屏風(山々が屏風のように重なる)、蓮田小(私は西小だったから他校への遠征)、青山小(近くの小学校)、朝見川(ドンコ釣りによく行った)、別府湾埠頭(よく投げ釣りをした)、楽天地(山の高台にある遊園地、裏山から柵を越えて入ったことも)、乙原の滝(キャンプをしたことも)、志高湖(楽天地のある山から2キロほどかな、蕨狩りによく行った)、思い出せば、遊び場は長じるにしたがって広がって行った。肥後守(偽物)はわたしの常備品だった。木刀、竹笛、ゴム銃、なんでも作ったし、ニッケの木の皮を肥後守で削って舐めたり、もちろん鉛筆削りにも使った。学校の購買で普通に売っていた。遊びは、ぱっちん、ビー玉、釘刺し、馬乗り、チャンバラ、宝踏み、Sケン、三角野球、鉄棒、そんなものかな。子どもの頃の私は毎日暗くなるまで遊んでいた。父が帰る頃、勉強していないことでまたビンタをはつられる、それだけが怖かった。
 母はいつも家計をやりくりして私たちに腹一杯食べさせてくれた。優しかった母と祖母に見守られて、わたしは中学になると、次第に勉強に目覚めていった。私が勉強ができるとわかると、父の鉄拳制裁も和らいだ。
 私の心に棲みついたもの、それは祖母の作った畑の野菜の収穫のときの喜び、毎日卵を産んでくれる鶏たちへの感謝の心、別府湾の投げ釣りでさよりの大群に出会い、魚籠いっぱいに持ち帰った時の喜び、その時の笑顔の母と祖母の顔が頭から離れない、その時の記憶が私を揺り動かす。
 高校は当時の県立御三家の一つに進学した。多分期待されていたのだと思う。担任は、いきなり「阿部、お前、文化委員だ」と言われた、入学試験の成績が良かったということか。
 高校時代は、父親との仲が悪くなるばかりで、父の言うことすべてが受け入れ難いもので反抗した。特に、「神仏を敬え」「毎日墓参りに行け」「仏様に頭を下げろ」と強制されるのが、苦しかった。家出したり、退学しようとしたり、母と祖母を苦しめてきた。「この家を出よう」と心にずっと秘めてきた。高校卒業の時に、大型トラックの免許を取って、当てもなく家を出た。東京に出て職を探した。運良く運送会社に拾われる。ここで6トン車の腕を磨いた。毎日東京と横浜の間を貨物トラックで往復した。私は何をしてるのだろう。大学へ行かなければ。中学の秀才が何をしているのだ。京都大学へ行くのではなかったのか。
 わたしは高収入の大型の運転手をやめて、郷里に帰った。父親に頭を下げた。大学に行きたい、帝大に行きたい。
 模試では番外でどこの大学にも入れない成績判定だった。
 私は信ずる道を進んだ。ひたすら信じて勉強した。
 参考書を受験科目に一つずつ決めて、ひたすらそれをやった。毎日、朝起きたら夜寝るまで3畳の部屋に籠もって勉強したんだ。
 九州大学法学部法律学科合格!
 3月3日4日5日の3日間にわたって試験は実施された。わたしは苦手だった数学が9割取れたことで気を良くしていた。
 合格発表は西日本一帯にテレビ中継された。母と祖母が見ていた。わたしは逃げるように映画館に隠れていた。母と祖母が泣いていた。「たけちゃん、おめでとう、今、テレビを、見てばぁちゃんと泣いたんで」、母のやさしい言葉がいつまでも心に残った。
 私は幼い頃より父には可愛がられていなかったのだと思う。いつも殴られていた記憶しかない。いつか弟が泣きながら父にバタバタと殴りかかっていたことがあった。わたしは、やめろ!やめろ!殴られるぞ!と心で叫んだ!
 しかし、弟は殴られることはなかった。父は笑いながら、幼き弟をいなしていた。わたしはほっとしたけど、あれが私だったら激昂してさらに強く殴られていただろうと思った。
 私は父をずっと恨んできた。大学を出てからも父とはうまくいかなかった。私は家から出る、このことばかりを考えて生きてきた。東京に出て、出会った彼女は運命の人であったのだろうか。赤い糸で結ばれていたのであろうか。大学に入る前の年、毎日夜8時頃近くの青山温泉に行った。寒い冬だった。風呂からの帰り道、いつも東の空に月が輝いた。星がたくさん煌めいていた。あの星を見ながら、あの星の下に、未来に出会う彼女がいるに違いない。必ず大学に合格してあの星の下に行きたい、私はそう胸に誓いながら、胸に熱い思いを、秘めて弟に急かされながら家路を急いだ。弟とは、仲良しでいつも弟は私のことを心配してくれた。
 父とは分かり合えることはなかった。わたしはわかり合えることは諦めた。年老いた父の体を心配し、いつまでも長生きしてください、と願うだけであった。父がなぜ私にあのように辛くあたってきたのか、わたしにはわかっていたと思う。私は望まれぬ子であった、そうなのだろうと思った。
 母さんは、いつも私のことを心配し、私を庇ってくれた。父が何を置いても大切にした祖母も私を可愛がってくれた。
 優しかった母が他界し、その11年後父も弟家族に囲まれて「そろそろ行く」と言ってこの世を去った。
 私の行く末をいつも心配してくれた母、私が憎しみを乗り越えてかけがえのない人として見ることのできるまでに私の心を成長させてくれた父、が遺してくれたもの、それは深い悲しみから沸き起こる慈愛でした。
 いつも塾の子どもたちの成功を喜んでくれた母、
 母の声が聞こえてきた!
 辛いとき、悲しいとき、嬉しいとき、苦しいとき、どんなときも私を思ってくれた母、その母の声が聞こえてきた!
 
 わたしは一人泣くだらう。できない君をただ悲しむことしかできない、だからわたしは泣くだらう。君ができないのは、君が理解できないのは決して君のせいではない。だからできない自分を責めてはならないし責めることもできない。ただ君が何もしない、不作為のままに過ごすのならそれはやめたほうがいい。君が未来の自分を少しでも思うのなら今できることはしなければならない。だって君には否応なく未来が訪れるのだから。
 身を結ばない指導にはとても耐えられそうにはありません。
 子どもたちに、君たちは大好きだけれど、このまま指導を続けるのは無理である、と伝えることも君たちを大切に思うからだと知ってほしい。

 母さん、ごめんなさい。
 
     

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