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「道」~迷い道

2020.12.19

 

◎「道」~迷い道
 公立中高一貫校の指導はわたしの迷い道の歴史であった。私はいつも指導に迷い、確かなものを求めて、悩んでいた。初めて指導を開始したのは平成18年の4月のことだった。九段志望の小6男子と東大附属志望の双子の女子が竹の会に入った。受検生はこの3人だけでした。九段人気は凄まじく倍率11倍にもなった。幸運にも竹の会の子どもたちは3人全員が合格した。しかし、竹の会にはまだ小学生を指導するノウハウは確立していなかった。当然のように私は過去問合格法を使った。あのみくに出版の過去問も2007年版が出たばかりだった。わたしはこの薄い過去問集を使って指導した。今使っている計算テキストは当時も使っていたが、割合の指導は、塾教材を利用した。割合に特化したテキストではあったが、正直使える代物ではなかった。わたしはこの頃から割合レジュメを単発でいろいろ試し作りしていた。18年から23年の間、私は本当にさまざまな試作品を作っては実践の場で試してきた。試作品は数千枚にもなっていた。今、竹の会の小学生には当たり前のミクロマクロ法もこの私の膨大な試作品の中に埋もれていた。23年の指導でたまたま使ったミクロマクロのレジュメが当時の小6男子2人に感動的に受け入れられて、私もこのレジュメをさらに執筆してみようか、と考えた。

 24年は竹の会にとってレジュメ指導元年となる。わたしは25年受検の子たちのために、これまでの過去問合格法を捨て、レジュメによる指導に切り替えた。この年は竹の会が入会試験を開始した年でもあり、さらには、竹の会渋谷教室移転(5月6日)の年でもあった。何が画期的かといって、私が小学生のために本格的に魔法ソフトを使ってレジュメ製作を始めたことである。きっかけは竹の会の入会試験の問題を魔法ソフトを使って製作したことからであった。その流れで私は次から次へと新作を執筆していった。
 さて魔法ソフトのコメントをしておかなければなりません。魔法ソフトとは、パソコン用の数式ソフトのことです。このソフトに出会うまでわたしはマイクロソフトのワードを使って教材を製作しておりました。しかし、ワードは、数式機能においても、作画機能においてもとても使えないソフトでした。わたしはわたしの、いや竹の会の未来を変えることになる数式ソフトにたまたま出かけた新宿の量販店で出会うことになるのです。平成14年前後のことでした。当時数万円はしたそのソフトを衝動買いしてはみたものの、なかなか使えず、1年かそこら放置したままに時が過ぎました。デルのデスクトップをたまたま入れたとき、ちょっと使ってみようかと思い立ちました。ソフトの使い方を勉強しながらいろいろな教材を試しに作りました。少し慣れた頃、平成17年の4月のことでした。わたしは竹の会の高校入試のための教材の全面的書き換え、レジュメ化という大事業に挑戦することになりました。都立西志望の中1を育てるためにわたしは日夜製作に没頭したのです。平成19年にはこの大事業も完成し、翌20年にこのわたしのレジュメを使った女子が都立西豊島岡女子に合格をはたしたのです。それでも私は小学のレジュメ化にはなかなか踏み切れないでいました。まだわたしには小学生指導の確かなものが掴めてなかったのです。きっかけは23年指導の男子2人でした。そして24年に入るとレジュメ製作は本格化します。わたしは、わたしの母校の進学指導のことを思い出していました。徹底してプリント教育でした。このプリントを、やっていれば受かる、そういうものでした。物理の先生の授業ノートは、2冊ほどでしたが、このノートだけで東大に受かると言われました。母校のプリントは思い出深いものばかりでした。古文、漢文のプリント、文学史のプリント、歴史のプリント、数学のプリント、英語のプリント、思い起こせばいいプリントに恵まれていました。わたしは、竹の会の子どもたちを母校のようなプリントで導きたいと思うようになりました。この私のレジュメだけで合格に導くのだ。わたしはその意気に燃えました。24年に製作したレジュメは、「竹の会入会試験」シリーズと「合格答案への道」、それから「算数をクリアーにする」だけでした。ほんとうにこれだけです。翌25年には5人の受験生中3人が、小石川、白鷗、桜修館合格しました。私は初めてレジュメだけで合格させることに成功しました。やっと過去問合格法と訣別することができのです。
 しかし、25年指導でわたしは老婆心と不安から22年に製作したワード版レジュメや雑多な過去の試作品を使ってしまったのです。これがいけなかった。翌26年の3人の受検生が全滅でした。一人は白鷗補欠でしたが、宝泉へ、6年後の今年東北大合格しました。もう一人は日比谷慶應に合格し、慶應に進みました。26年の指導では再びレジュメ製作に没頭し、翌27年桜修館富士に合格。わたしはレジュメ指導に自信と手応えを感じました。27年指導でもレジュメ指導に専念しました。ここで一つの問題があったのです。指導レジュメが蓄積されて、そのすべてをやるのは不可能になってきていました。翌28年、九段、小石川、白鸚、冨士に合格。竹の会のレジュメ指導は順風満帆に見えました。しかし、28年の指導で予期せぬ事態が起きたのです。わたしのレジュメで合格はんこが取れない子が続出したのです。レジュメが使えない。レジュメは合格はんこをとりながら導いていくものです。合格はんこが取れない子を導くことはできないのです。これは竹の会の入会試験で合格できない、仮合格の子たちが増えたことと関係ありました。竹の会に正規に合格できる子たちがほとんどいない、ピンチでした。竹の会の評判を聞いて訪ねてくるのは、できない子たちばかりでした。29年合格者なし。
 29年の指導では正規合格の子と仮合格の子が半々でした。仮合格の子たちはレジュメで合格はんこが取れない。思い余ってわたしは部分的に過去問合格法をとりいれました。過去問合格法を取り入れたのは、合格はんこが取れない子たちのためです。30年に富士に合格した2人は仮合格者で過去問合格法で救済したものです。ただ本年の経験から過去問合格法も、小6の段階でそれなりの合格はんこが取れない子たちには無益でした。桜修館に合格した2人は入会試験満点合格とA合格でした。
 31年(令和元年)の指導は失敗でした。一名を除いて全員が仮合格の子たちです。合格はんこが取れない。私が持病で苦しんだこともあり、わたしは直前6か月過去問合格法一本にしました。レジュメ指導が使えない。わたしはこの数年そういう子たちの指導で葛藤してきました。本来の私の指導ではないこと、過去問合格法をやるとしても合格はんこの取れる子でなければやはり効果が薄いことでした。病気で新作レジュメが作れないことがわたしを苦しめました。翌令和2年合格者は1名だけ、難関中の難関小石川に合格はしました。この子は入会試験満点合格の子でした。もちろんレジュメ指導は完璧にこなしてきました。合格はんこが取れる子です。
 私は迷い道から抜けて、一つの悟りの境地にありました。もう迷わない。わたしは母校の先生と同じように、あの伝説のプリントを作る。竹の会は、レジュメで導く塾なのだということにもう迷わない。
 
 合格へ導くレジュメを作りたい。作り続けたい。このレジュメだけで合格できる、そういうレジュメを作りたい。

 道という字のこと
 道という字には、「」の字がある。なぜ?
 古代文字の道という字も首を持っていく形になっている、というのは、漢字の権威故白川静博士。
 もともと他の氏族のいる土地や外界に通じる道は、邪悪な霊に接する非常に危険なところであったのですが、その道を行くとき、異族の首を刎(は)ねてそれを手に持ち、呪力(呪いの力)によって、邪霊を祓い清めて進んだのです。その祓い清めて進むことを「導く」といい、払い清めたところを「道」といい、「みち」の意味に使ったのです。(以上引用

 かつて日本の民法学の礎を築いた、元東京帝国大学教授の故我妻榮博士は、有斐閣のジュリスト特集号「民法学の50年」に寄稿して、「我が道を歩むのみ」だったか、書を遺された。我妻栄博士と言えば、岩波から出ていた「民法講義」はあまりにも有名であった。総則、担保物権、物権、債権総論、と続き、債権各論は4分冊で出た。不為法行は遂に未刊だった。民法講義は私も全冊買って何度か読んだ。全部読めば云千ページになろうか。
 先生は、民法を全三冊で概説した、一粒社から出た通称ダットサンでも知られていた。
 このような大家でありながら、純粋で、ひたすらに一つの道を歩むことに迷いのなかった先生の姿はいつもわたしの心の支えでした。
 人生とは、道を求めて、その道をひたすら進むことなり、と言いつつ、わたしはいつも迷い、迷っては道を見つけることを繰り返してきたように思います。

 

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