2022.06.03
「新草枕」
国語の解き方第9回
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塾、本物の塾を知らない人たち
今、どこかの塾に通っている人、その中には、単純に、成績が悪いまま、だから不満を持ちながら通っている人たちもいるであろう。成績が悪いのが、部活、怠惰、能力がない、そういうことなのかもしれないが、親はそんなことは一切無視して、ただ塾がよくない、と考えるものである。
成績がそれなりにいいと、この塾は悪くはない、と考える親もいれば、トップクラスにないことを不満に思いこの塾ではだめだと考える親もいる。決して自分の子に才能が足りないからだとは考えない。親の頭は都合よくできている。退塾するときも、自分の子は悪くない、悪いのは塾だと考える。いちばん当の子の「事実」を把握しているのは、現場で接する塾の先生であり、子は塾であったこと、事実が自分に都合が悪ければ、決して親にはほんとうのことは言わない。こうして塾の先生は、悪者にされてしまう。退塾のときは、塾、塾の先生は、悪者にされる。
こういう親が、本物の塾を、知ることは終ぞない。
疑う親が、知るのは、自分の子が都立は無理と宣告され低偏差値の私立に無試験入学(単願推薦)したときだろう。
大手を上げ奉り、竹の会のような塾を内心見くびった親が最後に直前するのは、その結果が、都立を落ちて、併願都立や滑り止めの低い私立に入らざるを得ない事実に直面したときだ。
渋谷教室の最初の頃、入会試験を受けて合格もらって、さっさと大手に行く親が何人かいた。頭から竹の会を信じてないのだ。
ときたま四谷大塚とか日能研の子が小石川志望と称して竹の会を併用するためやってくることがあったが、1か月ともたなかった。授業に慣れた子、教えられることが習性となった子には、与えられたものをだれの助言もなくただ独りで考えるというのが耐えられないのだ。さらに言えば、大手進学塾の子というのは、指示された、例えば計算のような単純作業を1時間も2時間もやることを無駄だと思っている節がある。直接、「自分は小石川を受けるのだから小石川の問題をやらせてくれ」と内心考えているのではないか。小5ですよ。まだ計算も未熟、解き方は知っているが誤答ばかりする。普段の自分はちがうと信じている。算数の訓練にまともに入らないままに「騙された」と言わんばかりに母親が断ってくる。大手というのは、何か「これが出る」「これをやっていれば受かる」というおまじないの効いたテキストをやらせて親や子を惹きつける。そういう受験する親子の心理を巧みに摑んでる。しかし、試験は試験だ。素の実力、言うならば思考力の深さで最後は決まるということだ。力のつきそうなおまじないの効いたテキストをやったからといって、未知の問題に遭遇したとき試されるのは本来備わった思考力でしかないのだ。
行くところは大手と決めて揺るぎない親ばかりの末路はわかりきった終わり方しかない。
中学を舐めるな‼️
公立中学に入って、中学生活を学園生活として楽しもうなどと考えているなら、そういう生徒は決して竹の会には来ないことだ。竹の会は中学生には平日5時間、休日10時間の勉強を理想として考えている塾である。部活は禁止である。激しい部活で疲れて遅くに竹の会にやってきて結局居眠りをするしかないという生徒はこれまでにもいたが、残らず自主的に退塾したか、退塾してもらった。そもそも定期試験でまず理科社会が80点以上とれない時点でその生徒は普通ではない。普通の能力の生徒なら問題なく80点はとれるはずだからだ。普段から理科社会のテキストを繰り返し、問題練習を繰り返すということをやっていればいいだけの話しである。英語なら毎日基礎英語は欠かさず、常に、単語を覚え、リーダーを繰り返し読むことぐらいは日課としなければならない。数学のレジュメは先へ先へと進めなければならない。つまり、勉強中心の生活軸をつくり習慣とする。学校でやっていることに遅れ始めたらもう終わりと思っていい。竹の会では、早い生徒なら中1が終わる頃には中3をやっていなければならない。中1の最初の定期テストなんて、だれでも点が取れるように作られている。勝負は2学期の最初の定期テストだ。竹の会では中1は早くて夏、もって中1の終わりというのがほとんどである。みな定期テストで脱落していく。とんでもない低い点を取ってやめていく。勉強というものを舐めているのだ。七都立に行きたかったらそれだけの勉強が必要なのはあたりまえだ。そういうところに行ける子はもともとの才能に恵まれていて、そのうえ人の何倍も努力する子に限られる。普通並みの生徒が部活やって受かるわけがない。勉強というのを甘く見てはいけない。理科社会は中2前半までにパーフェクトに仕上げていなければもはや都立受験はない。特に、英語は、中2までに入試レベルに達していなければ受験は無理である。中3の最初のVもぎで50点取った生徒は、その後の模試では50点前後を取り続ける。いくらそれから英語を勉強しても取る点数は変わらない。これは理科社会も同じだ。数学に関しては上がっていく生徒もたまにいる。国語は上がるか、下がるかのどちらかだ。
部活で疲れ切って勉強がおろそかになり、次第にやる気をなくしていく、あるいは普段の勉強が少ないので学校についていくのがやっとで定期テストも7割切る、そういう生徒の行きつく先は、単願の私立、つまり事実上無試験の私立に入るか、内申がよくても実力のない生徒が集まる併願私立に行くしかない。つまりそういう生徒のたまり場高校に入るしかない。
勉強するというのは、世の中に、特に親に甘えないということだ。勉強することが、自立の始まりである。親に勉強しないと小言を言われている限りまだまだ世の中に甘えた子どもということだ。自分で人生を切り開いていくこと、それが勉強の本質だ。だから言われなくても心配だから先へ先へと進めるのである。理科社会が心配だからやるのである。勉強しない子というのは、放置して、流す。つまり周りが何も言わない限り怠ける。放置する。不作為を決め込む、流す、これは自立心のない生徒である。自分で将来を切り開く気持ちもない、つまり親依存、社会依存のままということである。勉強というのは、子から依存心を取り払う、より積極的に人生に取り組む姿勢の契機となることなのである。
勉強を甘くみるな。