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無塾の子について

2022.06.14

 

インプットとアウトプットの研究

 

 

◎無塾の子について

 無塾の子は、勉強の訓練をする機会を逸したがために、自分の未来を無にする可能性がある!
 塾というのは、未熟で、まだ粗野な頭を訓練して、型を造る、基本の型をつくる、さらに思考の型をつけてやる、そこから自分の勉強の型を作りあげていく、いわゆる勉強のスタンスというものを備えさせる、勉強が生活の軸として、習慣化されるのを助ける、勉強が生活そのものの核となるほどに、人間を成長させる、そういうものでなければならない。
 このコンセプトからわたしは子どもたちを指導してきた。
 私が失望するのは、いつも他塾に、特に大手に1年、2年と通っていた子たちについてである。
 この子たちは、訓練というものをされてこなかったのだ。大手も中小塾も、やることはみな同じ。テキストと授業、講師も様々。学生講師が多い。そういうところで横並びの授業を受ける、理解は十人十色、千差万別であろう。如実に能力差が偏差値で示される。偏差値がすべてである。当然落ちこぼれは大量に出る、しくみになっている。
 進学教室型の塾はそうである。公立中高一貫校型の塾はどうなのか、800人いたら、8倍の試験なら、100人受かるのか。そうはならない。どこかの誰かが、落ちたら塾はどう責任をとるのか、とかわけのわからんことを言っていたが、あたかも塾に行けば100%受かる前提があるかのようなことを言う。そんなものあるはずがない。試験とは、落ちるから試験なのだ。仮に、塾が「頑張れば受かる」と言っても、塾には、そんな力はない。
 私の経験から言わしてもらえば、受かる子には、もともと脳の奥底に眠っていた、才能があったのであり、塾にはその才能を引き出す、微かな才能を伸ばす、そういう技術が求められているのだと思う。しかし、多くの脳の奥底に埋まっている才能を引き出せる塾というものはあるのか。少なくとも、限られた天才を除き、大半の子たちはせっかくの才能を生かせないままに終わることであろう。埋もれた才能を見つけること、その能力を引き出して、伸ばしてやること、ではないか。「できる」と思われている子、自信のある子が、必ずしも、才能があるとは限らない。周囲が「この子はできる」と思っている子、本人もその自覚のある子が必ずしも才能があるとは限らないのである。模試ができない子の実体はそういうところにあるのかと思う。

 試験というのは、才能がなければ受からない。周りがどう思うか、本人がどう思うかなど関係はない。

 わたしがプロとして心が和らぐのは、子どもに才能の片鱗を見たときである。努力する子が受かるのでもない。残された時間、竹の会に残された時間は少ない。それでもまだ才能ある子に邂逅することを期待するのは塾という仕事にかけてきた人間の性であろうか。

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