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竹の会が薦める「読む」ということの意味

2022.06.25

 

 

 今年の10月で38年目になります!!

 勉強するとは、「読む」ことと心得たり!!

 竹の会が薦める「読む」ということの意味
 常に、全体構造を俯瞰(ふかん)し、あくまでも拾い読みに徹すること、ではなかろうか。400ページ前後の本なら、7回読みも「できる」と思う。500ページを超えると私の場合は、無理と思う。だから、専門書は、400ページを超えないことが、私の場合は、鉄則だ。
 少しく「読む」ということについて考えてみた。
 覚えようとして読むのは、理解を犠牲にする読み方になる。とにかく徹底して、理解本位に読むことだ、と得心している。
 理解を重ねる、ということが、大切で、覚えるは、後から付いてくる、オマケと考えた方がいい。
 本を読むというと、最初の1ページから最後まで通しで読むものだと考えている人も多いかと思うが、それは、小説のような筋のあるものならいざ知らず、特に、専門書には該らない。
 書いてあることが、「わかる」、これがすべてである。人間にとって、書いてあることの意味が手に取るように「わかる」ことほど、人間の心を軽やかにするものはない。「わかる」とは、人間の本能に根差した、喜びではないか、とは最近よく思う。
 人間にとって「わからない」という状態ほど不安なものはないのではないか。「わからない」ことは、恐怖である。人間は「わからない」ものに蓋(ふた)をする傾向がある。それ以上考えないのだ。忘れるのだ。日常から追放すると言ってもいい。「わからない」ものが、日常に居座られては、不安で仕方ない。だから、日常世界から亡きものにする。
 「わかる」ということは、あらゆる意味において、人間の脳を富ませる。人間は、「わかる」ことに憧れてきた。「わからない」から、悩むのだ。
 「わかる」ということは、これが塾の最良の商品でもある。
 私が、竹の会が、常に、「わかる」を提供しようとしてきたこと、そのために、あらゆる工夫を重ねてきたことは、偽りのない、ことでした。
 才能、逸材を求めてきたけれど、竹の会のような小塾には最初からそういう子は来ることはない。少々できる程度の生徒が、「竹の会では日比谷は受からない」と去って行ったものでした。しかし、そういう子はその程度の能力であったということです。わたしには、竹の会を信頼する逸材さえいれば、筑駒、開成トップで合格させる、秘かな確信があったのですから。
 今年の10月で竹の会は38年目を迎えます。塾を終わるまでに、筑駒、開成を獲って、竹の会の仕事を終えられれば、わたしには思い遺すことはありません。

 子に負荷を与えない親の増殖 

 進学塾の詰め込み授業が如何に思考というものを破壊しているか、知らなけれならない。
 これと対極をなすのが、公立中高一貫型の塾、あるいは補習型の塾であろう。脳に優しい問題ばかりを解かせていればどうなるか。宇宙で3日過ごせば、骨はボロボロになるという。重力のないところで暮らすとそうなる。同じことだ。脳には負荷をかけることが、重要なのだ。都立中高一貫校型の塾で、誰にもわかる教材なんか使ってたら脳はアホのままだ。教材が難しいと「うちの子にはレベルが高い」「能力に合わせていない」と騒ぐ親がいる。教材を批判するのだ。そんなら受検そのものがレベルが高くて、「うちの子には無理だ」と考えるのが筋ではないか、と思うのだが、そうは考えたくないのだ。それなりのレベルのところを受けるなら、当然教材もレベルは高くなる。あたりまえの話しだ。何か勘違いしているようである。

 

 ※侮辱罪の厳罰化成立に思うこと

  竹の会もよくネットで叩かれてきました。匿名という鎧(よろい)に隠れて、つまり自分だけは晒されることはないということを前提として、しかも一方的な言いぱなしですから、言われた方は反論の機会もないのです。無防備な立場にある人たちを侮辱して世間に晒すのが目的です。これが刑法犯罪だという自覚がない人たちが、その辺に普通に生活している市民だというのが今の社会の異常なところです。 
 

 波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い 雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、 百尺下の水の心を。水の深さを。
  (吉川英治「宮本武蔵)
 

 

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