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🔛次元の高い思考力を子どもが如何にして手に入れるか

2023.12.05

🔛次元の高い思考力を子どもが如何にして手に入れるか
 
 思考力をつける過程というのは、とてつもなく時間のかかる仕事だということをまず認識しておかねばなりません。
 そうなれば、できるだけ早い時期からそのための訓練をしなければならないことはおわかりになると思います。
 三つ子の魂百まで❗️
 世阿弥の「風刺花伝」には、芸事の始めを七歳としておりました。
 鉄は熱いうちに打て❗️
 わたしが、大手に失望し流れてきた高学年の子たちを見てわかったのは、一様に、計算力なし、割合を理解した子は皆無、従って、思考力は浅い、勉強習慣については、これは大手だからというのではなくて、真面目さ、親の姿勢に関わることでもありますが、様々でした。形式的に真面目な子は、きちんと家庭学習をやるようです。ただそれは割合を通して思考を鍛える過程で勉強習慣を身につけたというものではなく、飽くまでお父さん、お母さん、学校の先生に対する「いい子」で振る舞うという範疇のものです。
 こういう子たちが、成功する可能性は限りなく低いと言えます。
 早くから竹の会で思考訓練のための過程で鍛えられてきた子たちとは、やはりまるで違います。
 大手の高学年は、もう2年、3年と通ってきたと思いますが、わたしの知る限り、計算力未熟、割合を理解しているとはとても思えない、従って、未知の問題に対して思考力で切り抜けるということができない、そういう子たちでした。なんで親が、こんな状態なのに、いつまでも大手に通わせるのか、本人も通い続けるのか、不思議な話しである。
 それは、大手は大きな組織だから間違ったことはしないだろうという権威主義的な信仰を持つ親が多いからである。大手信仰というのは、みんなが通っている、大きな組織、たくさんの仲間がいるから安心、子どもも一緒に通う仲間がいる連帯感、などが全体に、いったん決めたらそのままという不作為が楽だからという人間の本性と相俟って、いわば大きい組織の引力に引きつけられている、ということではなかろううか。
 しかし、これだけ中身のない期間を無為に過ごせば、子どもがどうなるのか、わかろうというものである。
 竹の会は求められれば、小冊子を送っているので、これまで竹の会に小冊子を請求した親の多くが、その後大手に行ったであろうことは推測できる。
 さて、それから2年、3年経って、その選択の答えが出ていることであろう、どうだろうか。わたしの予想は外れていたであろうか。
 適性問題の正解率は芳しくないはずである。
 計算力もあやふやではないか。
 割合を理解しているとはとても思えない。それは竹の会に来た小6が、中学受験の普通の割合問題も解けない、ことでわかることだ。
 都立中学は、ほとんど落ちることであろう。
 そして、ぽっかりと空洞のできた、このような小学生たちが、今後どのような道を辿るであろうかも、わたしにはわかりすぎるほどわかる。
 都立中学受検で大手に行くことは、大きな代償を払うことになる。

 それは常々わたしが言ってきたことである。その親たちが自分の子が小6になり,初めてわたしの言っていたことを理解する。
 コツコツと計算力を培うこと、割合の思考を鍛えるために、少なくとも2年間は、割合問題にどっぷりと浸かること、そこから思考するとはどういうことかを体験しながら身につけていくこと、これこそ世阿弥の「風刺花伝」にいう、習い事の・稽古事の精神にほかならない。
 子どもの教育に大切なのは、世阿弥のことばを借りれば、七歳をもって芸事の始めとすることである。わたしは小2をもって学問の初めとする。

七歳
一、この藝において、大方(おほかた)、七歳をもて初めとす。この比(ころ)の能の稽古(けいこ)、必ず、その者自然とし出(い)だす事に、得たる風體(ふうてい)あるべし。舞・働(はたら)きの間、音曲、もしくは怒(いか)れる事などにてもあれ、ふとし出ださんかかりを、うちまかせて、心のままにせさすべし。さのみ、よき、あしきとは教ふべからず。餘(あま)りにいたく諌(いさ)むれば、童(わらんべ)は氣を失ひて、能ものぐさくなり立ちぬれば、やがて能は止(と)まるなり。
 ただ、音曲・働き・舞などならでは、せさすべからず。さのみの物まねは、たとひすべくとも、教ふまじきなり。大場(おほには)などの脇(わき)の申樂(さるがく)には立つべからず。三番・四番の、時分のよからんずるに、得たらん風體をせさすべし。


得たる風體 見についた良さ
かかり 風情。趣き。
氣を失ひ する氣がなくなって。
ものぐさくなり立ちぬれば いや氣がさしてくるよ。
音曲・働き・舞 能の基本となるもの。
脇の猿樂 脇能。演能において最初に演じられる能。
立つべからず 登場させてはいけない。
得たらん風體 得意とするような藝。

小学生低学年の指導、小学生、中学生の指導において、世阿弥先生の指導に関する、勘所をお教え願うことになる。

低学年に、計算ばかりやらせていると、中には、集中が続かない子、その結果、いや氣のさす子が確かに、いました!
 その者自然とし出だす事に、得たる風體あるべし。

能力がない者、能力が普通の子に、受検名目に、基礎を養う機会を奪う親の気がしれない。大手の塾が、自分の子の能力の欠缺を治癒してくれると素朴に信じる親がいること自体がアホらしい話しであり、塾というものが、たとえ大手だとしても、どんなことができるところか、考えて見ればわかることであろう。
 どんな子でもできるようになる、そんなの現実にはあるわけがない。そんなことは親もわかっている。ただ事実を認めたくないだけでしょ。だからできないのは、塾が悪いと、本末転倒のことを言う。だから塾選び、とか塾の選択、塾ツアーなんかをやる。自分の子の能力問題を塾で解決できる、と思うのは、親の勝手な理屈である。
 しかし、大手が、子どもの能力の欠缺を解決できるとは、ありえないのだ。
 大手の欠陥
 能力の足りない子に、問題集・テキストを与えて、予習・復習を善行のように奨励する。やることは、問題集を授業で進めること、それを年間カリキュラムに組む、季節講習も同じコンセプトだ。
 一番、基本的なことを稽古しなければならない時期に、問題解くことばかりをやらせるわけだ。
 計算力があるのかないのか。計算力なんかかかりきりで見てやらないとつくわけがない。子どもたちにやっておくように言うだけで計算解決なんてあるはずがない。子どもというのは
責任持たせて任せたらやらないか、いい加減にやって済ますに決まっている。割合の勉強は、相当学年に、テキストの単元、高々4ページほどやって、終わり、それで子どもに何が残ったというの、特に、普通の子がそれで割合を使いこなせるようになるとでも言うのか。
 そういうところに、よく子どもを預ける気になるな、と感心するしかない。
 基本、普通レベルの子は、バカである。だから普通の子を指導するというのは、簡単なことではない。それなりの覚悟がいる。少なくともそういう子を多数集めて、なんとかできることはない。一人一人それこそ手にかけて見てやらなければとても引き上げることはできない。普通の子は目が離せないのだ。大手のように、信じて本人のやる気に、任せるなんてことできるはずがない。わたしは基本子どもは信用していない。自分で本当にできるどうか、確かめないと、わかっていることにして、先に進めることなどできない。
 大手で成功するのは、余程の能力のある子であろうと思う。なにしろ計算も割合も自分の責任でやらなけらばならないのだから。自分でやってできるというのは、相当な能力のある子である。
 わたしのやり方は、世阿弥方式である。小学生低学年のときに、つまり、七歳から、子どもの心を損なわないように、子どもの稽古をよく見て、導いていく。 
 計算は、指導のたびに確認する。竹の会では、できるようになるまでやらせる。ただし、計算習得課程は、さまざまな工夫を凝らし、合理的な進め方を常に探求している。子どもたちのほとんどが挫折する逆算の習得法も挫折する度に改善してきた。割合初期導入も子どもたちの段階差があり、きめ細かなレジュメ制作を心掛けてきた。
 

 そもそも大手の発表する合格実績にどれだけの信憑性があるのか、純粋に、例えば、1年は通ったのか、2年、3年通ったのか。大量の生徒を抱えて、いったい不合格率はどうなのか。もう8年前になるか、竹の会の子が、ある大手塾も模試を受けたことがある。その時は、2500人以上の受験者がいた。竹の会のように模試だけという子もいただろうから、その実数はわからない。ただ外部受験はあまりいないのではないか。ちなみに、竹の会の子は16番だったと思う。不合格者数が分かれば面白い。
 今、小6で大手に通ってきた子たちの親は、自分たちの選択の結果を知る時期き来ている。ほとんどの子は「落ちる」ことはわかっている。大手の発表する合格数に見合わない多数が、予定通り失敗し、大挙公立中学に流れ込む構図は毎年変わらない。そして、中学でまた大手に通う。
 小学生の間、蔑ろにしてきた基礎放置が、中学の運命を既に決めていることを葛藤しながら悟る過程となるであろう。中学では多くの子が、部活に嵌り、人生を下方方向にさらに修正することであろう。部活の影響で、もともとレベルの低い授業でさえもついていけない子がさらに続出するであろう。
 結論から言いますと、あなたたちのほとんどは、まずまともな都立に行くことはありません。都立中高一貫校をめざして大手塾に長い子で3年は通ったことでしょうが、結局、まともな都立には行けません。すべて小学時代を基礎をなおざりにしてきた結果です。あなたたちのほとんどは、低偏差値私立に単願推薦(つまり、無試験入学)で進むことになるでしょう。その入学した高校も中途退学の可能性が高い、と思います。なんとか卒業しても、そのまま社会に吐き出されるわけで厳しい試練が待ち受けていることでしょう。落ちこぼれ収容施設としての専門学校に吸収される人も多いことでしょう。
 この子たちの共通の特徴は、小学低学年期の放置、小学中期から後期にかけての大手塾に通うことによる、基礎習得過程の欠落である。
 小学低学年からの勉強習慣の「躾」が子どもの将来を決める。小学低学年期こそ世阿弥流の基礎訓練がもっとも必要な時期なのに、これを放置するから、失敗するのだ。竹の会にも小4からという子が多いが、正直、遅い! それは小5、小6になってくれば、実感するはずです。
 小4なら毎日3時間の家庭学習は当たり前のはずです。竹の会に小2入会なら小4になったら放っておいても5時間やる子も出てきます。小4から来た子というのは、家庭学習なんかやらない、という子ばかりでしょ。
 とにかくわたしは小2がベストと考えています。
 小2から来た子の、小5、小6以降の伸びは急です。とにかく恐ろしいほどできるようになる。これはわたしも驚きです。小2、小3のころ、足し算、引き算を辿々しくやっていた子が、まさに「頭角を表す」のが、小5からです。これをこそ開花と呼ぶに相応しい。あなたたちは、小2から子どもに稽古をつけてきたことの、凄さというものを、永久に知ることはない。なぜなら、あなたたちは、まだ小2だから、小3だからと、ほったらかしで、遊ばせるだけあそばせてきたからです。これは子どもはバカになりますよ。世阿弥先生なら、この時期は放っておかない。なにしろこの時期こそが、宝石に値する時期、時間なのだから。そう、あなたたちは、宝石を何も考えないで捨ててきた。
 子どもがかわいいそう? そうではない、将来社会の掃き溜めに流されることの方がよほどかわいそうでしょ。
 それから教育には、中途半端なカネのかけ方をしたら、教育は失敗します。教育というのは、将来の投資です。しかもこの投資はカネをかければかけるほど投資効果が高い投資です。
 高学年になって塾にやる、これはもしそれが大手なら、カネと時間の無駄になる可能性が強い。こういう子は低学年時はほったらかし、高学年から突然勉強というのがパターンです。基本の稽古が抜けた、欠落した子たちです。それがいきなり大手で基本抜きで、受検のための勉強ですか。こんな無茶な話しはない。しかし、親も子もこれで「受かる」と信じてる。しかし、信じるのは、勝手ですが、まず、ほとんどは、公立中学へ流れます。基礎稽古なしの連中が、中学に入ると、もう部活の紹介に目を奪われ、たちまち部活部活です。勉強の展望なんてない。もともと受検も行き当たりばったりでしたから。結局、こういう人たちは、まともに基本からコツコツと訓練を重ねてきたことは一度もないから、落ちていくのはわかっている。低偏差値私立に事実上の無試験で進むことになる。
 低偏差値私立とは、落ちこぼれを社会から当面は収容する施設のことです。できの悪い子たちを収容するのは、専門学校とか他にFラン大学がありますね。
 おそらく小学生のほとんどのパターンは、小学高学年で、大手塾に集合し、当然、落ちて、そのまま公立中学に進み、部活で疲れて、学校は落ちこぼれ、低偏差値私立へとまるでベルトコンベアで流されるかのように落とし込まれていく。
 社会には、落ちこぼれをそれと意識させない、緩衝装置としての、社会更生のための、施設としての学校という名で、思い違いさせる制度が巧みに用意されている。
 それは学校という選抜システムから必要的に吐き出される一定数の落ちこぼれを収容する施設なのです。

 

 

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