2020.08.01
◎算数ができるようになるには
まず隗より始めよ!
想い出そうとすると頭が働かない!
経験 一度解いた問題を再び読むときどうしてもどう解いたか思い出そうすると、読み方が散漫になる、事実を飛ばして読む、改めて考えようとすることもないからどうしても記憶に頼る、事実の記憶が曖昧なためいろいろと勘違いし、見落としもしてしまう、こういう頭の使い方がいいわけがない。
7回解き直しが、このレベルにあるともはや害である。
何かを判断するとき、記憶を根拠に判断しようとすると必ず誤判断する。人間の記憶ほどあてにならないものはない。
やはり事実を読むときは、丁寧に初心にかえり、注意深く読んで考える、観察する。問題は何度も読み返し事実の誤解がないかをチェックする。よく問題を一度読んでもう「わかりません」と持ってくる子がいるけれど、お話しにならない。
わたしたちは、事実をこそもっとも重視しなければならない。実際の社会では、新聞、テレビが適当に事実を切り取り報道するから、わたしたちは、事実を正確に知る機会をほとんど持たない。事実がわからなければ、事実を根拠にしなければ、社会では、何も判断できないのにだ。マスコミの偏った事実の報道でわたしたちが、誤判断する事態はおそらく避けられない。武田邦彦は、テレビを見なければいい、いや見てはならない、と言い切っている。彼はテレビをウィルスをばら撒く害悪とまで断じている。テレビはコメンテーターというのがまた害悪を撒き散らす。わたしたちが欲しいのはコメンテーターのパクリの意見ではない。事実が知りたいのだ。真実が何かを知りたいだけなのだ。意見などというのは、事実を見てわたしたちが判断することなのだ。
わたしたちは、子どもに事実の重要さをこそ教えなければならないのだ。
算数ができるようになるために、解き方を習うバカになってはいけない。そうじゃないんだ。
算数は解き方を習う科目ではない。算数とは、算数事実を通して事実の把握の仕方を学ぶ学問なのだ。あなたたちは明らかに誤解している。あなたたちはまず事実を観察しなければならない。算数のできない子の頭の中は、前に習った問題がどういう解き方をしたかをただ思い出そうとするだけ。それも曖昧な記憶のままに今の事実をその記憶にあてはめようとする。事実の違いなど無視する。違うのだ。姿勢から違う。問題の事実を丁寧に観察し分析する。事実から「考える」。それが算数の勉強にほかならない。問題を見てまず読まなければならないのは「事実」である。算数の勉強は事実を読み取る訓練である。
事実を見て、何か方法があるはずだとひたすら考える子とすぐに「これしかない、先生、問題が、間違っているのでは」と申し立てる子の違いがわかるだろうか。事実の読み取りが貧弱なのだ。
まず隗より始めよ。昔高校の漢文の教科書に出てきた、有名な教訓である。
燕の国は、太子平を王とした。
これが昭王である。
昭王は戦死者を弔い、生存者を見舞い、へりくだった言葉づかいをし、多くの俸禄を与え、賢者を(国に)招こうとしていた。
昭王は郭隗に次のように尋ねた。
「斉は私の国が乱れていることにつけこんで、攻め入って燕を打ち破りました。
私は、この燕の国が小国で、斉に報復できないことを十分承知しています。
嘘偽りなく、賢者を得て一緒に国を治め、先代の王の恥をすすぐことが私の願いです。
先生、よい賢者を教えて下さい。
私はその方に仕えることになるでしょう。」
郭隗は言った。
「昔の王に、千金(の大金)で、そば近くに仕える者に、一日に千里を走る名馬を買いに行かせた方がいました。
(ところが)死んだ馬の骨を五百金の値段で買って帰って来たのです。
王は怒りました。
しかし、死んだ馬の骨を買った人が言うには、『死んだ馬(の骨)でさえ、(五百金もの大金で)買ったのです。生きている馬なら、なおさら高く買うに違いないと(馬を売る人たちは)思うでしょう。(千里の)馬は今に集まってくるでしょう。』
一年もたたないうちに、千里の馬が三頭も集まったのです。
王様、どうしても優秀な人物を招きたいなら、まずはこの隗をお召し抱え下さい。
(そうしたら、)この隗よりも賢い人物は、どうして千里の道を遠いと思うでしょうか(遠いとは思わずに仕官しに来るはずです)。」
そこで、昭王は隗のために住居を築き直し、師事した。
こうして、賢人たちが我先にと燕にやって来た。
まず事実から始めよ。さすれば算数は自ずと身につくはずである。
8月メイン指導書「処方箋」