2020.07.25
◎「算数の鍵」
「思考の鍵」と「割合問題編」の橋渡しとして執筆を始めたが、同じような基本レベルのレジュメを何冊作ってもしかたないと思い直して、算数を通して思考を磨く主旨から問題を選び抜いた。そもそも「思考の鍵」や「ようなもの」レベルで躓くようではやはり見込みはないように思います。そういうところでいろいろ心を砕いても徒労に終わるのが経験値でした。これは説明して「わかった」という子には結局何も力というものがついていなかったというのと同じでした。伸びる子は、「割合問題編」に問題なく入っていけるものです。それで思考力をつけるレジュメの制作に徹する主旨で、問題を選びました。わたしの問題真贋センサーに感知した、思考の層の厚い問題を選びました。これまでの割合に焦点を絞った問題に限らず、算数全般を鳥瞰しました。全61回問題全114題を選びぬきました。今夏より早速投入開始の予定です。
◎算数判定試験が炙りだす思考の正体
わたしは、思考の正体として、「真力」という概念を定義してみたい。
真力とは何か。
適性検査本番では、見たこともない問題が、問われるのが、当然と考えて対処しなければならない。問題を読んでも、「何を書いているのか、わからない」ということもある。そういう場合に、人間というのは、これまでに経験した記憶を辿ろうとする。過去に似た事実はないか、思い出そうとする。そういうときの私たちは記憶機械さながらの体である。記憶というのは、私たちを助けるもので、飽くまでも思考の補助にすぎない。なのにかの補助システムをメインにしてしまった人たちがなんと多いことか。
「わかりません。教えてください」という人には、真力というものは決してつかないようである。人に説明されて理解する脳というのは、真脳を直接良くする働きはどうもなさそうである。
自分で問題が解けない子というのは、永久に解けない、そういう気さえする。結局は、解けないで、説明してもらう、そして「わかった」という子が、その説明によって思考力をつけていくかというとわたしの経験値は決してそういうことはなかったということを教えている。また新たな問題には相変わらず解けない、わからないのである。説明を受けた回数は数えきれない。そして「わかった」という経験も数えきれない。しかし、また新たな問題に対するとやはりできない。竹の会の「推理の素」や「1%下巻」を例の「わかった」で終わらせた子というのは、結局できない。7回解き直ししても効果はまるでない。こういう子たちには、真力がないのだ。真力の定義は後に譲るとして、真力の概念イメージは掴んでもらえたと思う。
さて、この真力がないという子たちは、そもそも算数以前に、事実を読み取ることが困難なようである。事実を正確に読み取る子なら事実を図で表現することもできる。図がかけない子が多いのは無訓練、未経験からなのかとも思われる人もいるかもしれないが、そうではないようである。指導するときには図をかいて説明するが、そういうことを何度重ねてもやはり図をかけない子はかけない。どうかいていいのかわからないという。そもそもの学習能力が低いのだと思う。説明を受けているときに図をかいて説明してもらってもその図がなんとわかりやすいかという感動さえもない。その場限りで使い捨てられる。そういう子が増殖している。事実にあまりにも無頓着であり、事実を曖昧なままに使い捨てるのが昨今の子どもたちである。
できる子は感動するものである。感嘆するものである。
世の中の親や子たちが、「わかりやすさ」を価値として、「わからない」のは、自分の脳が悪いからではなく、わかりやすく教えない方が悪いと考えるようになって、頭の悪い人間が、やたら増えていったように思う。
そもそも「わかりやすい」とは、何なのか。
「わかりやすい」とは、いいことなのか。TVで池上彰が、なんでも「わかりやすく」解説するという専門家を気取っているけれど、「わかりやすさ」を大安売りして、視聴者は、「わかった」気になっているだけでしょ。かつて池上彰が、「法人とは、会社みたいなものだ」と「わかりやすく」言った風だったが、法人を会社と言い換えただけでしょ。別の言葉で言い換えることがわかりやすさだと思っている、なんと安易な自信家であろうことか。何みたいなものだ、というのはかなり曖昧でいい加減である。ちなみに法人というのは、人に法律の「法」を冠した語で、民法に出てくる。その場合の意味は、権利義務の享有主体としての地位を言っている。人ならば当然に権利義務を享有するが、一定の人の集合にも権利義務の享有主体としての地位を認めようというものである。法的に作られた人という意味である。例えば、法人ならその集合体の名において預金をしたり、訴訟の原告などになることができる。
わかりやすさというものが、正確な意味を犠牲にして、かえって曖昧にすることもあるということも知っておかねばならない。よく家庭教師がわからないという生徒にかなり無理な比喩をすることがあるけれど、あまりに突飛な「例えば」はますます物事を曖昧にしてしまうことがある。かえって本体の理解が遠のくということはよくある学生の不始末である。
わからないから、考えるのではないのか。自分は考えないで、人が、わかりやすく言い換えたというものを喜んで受け入れる。だいたいほんとうに正しい知識かどうかもわからない、相手がわかった気になっているだけかもしれない。自分は、全く思考しないで、人のデッサンした知識を受け入れるだけのバカになってほしくない。
だいたい「わかりやすい」がいいことなのかも疑わしい。世の中には、わからないことだってたくさんある。それを何もかも「わかる」という前提である。お前は神かと言いたくなる。
わかりやすくというのは、思考停止のおまじないだ。世の中には、わかりやすくないものの方がむしろ多い。
さて、話しはそれたが、算数にしても、数学にしても、わかりやすさを求めたら、それは思考の自殺なのだと思う。
わかりやすく教える塾は、思考を殺す塾である。大手の横並び方式の集団授業も、思考を麻痺させる危険に満ちている。家庭教師などは思考を無力化させる最たるものである。
竹の会では、今年初めて本格的な「算数判定試験」を始めた。三回やって見えてきたことがある。普段「わからない」が多い子はちっともできない。やたら説明を求めてくる子はちっともできない。なんという真理であろうか。算数判定試験がそのことを証明した。
考えて正解に達した者のみが生き残る。これほど明らかなことはない。
思考とは何か。思考の本体は何か。その思考を深めるのにはどうしたらいいか。
わたしは、問題を選び、実際に解く。解いて見なけれは問題の細かい質、綾はわからない。解いてみて初めて問題の、見ただけではわからなかった「皺」が見えてくる。思考とは、この皺を読み解く力のことにほかならない。皺の層を一枚一枚剥がしていく、そうすると何かが見えてくる、わたしはそういう良質の問題を真贋の目で峻別し、子どもたちに与えるだけである。実際に考え、層を剥がしていくのは子どもたち自身である。層は剥がしてみた者にしかその妙味はわからない。人に聞いてわかったという子はまったくと言っていいほど何も力をつけてはいない。ただ形としてテキストを終わり、いくら七回解き直しに熱心に取り組んでもそれは虚しい努力でしかなかった。