2020.01.18
粗い頭を作る進学塾方式、高速回転のもたらす粗悪品の必然的生産
速い方がいいのか、遅い方がいいのか。早い方がいいのか、遅い方がいいのか。
これから語るのは、前者に関する。
遠心分離機というのがある。あれは高速で回転させて、つまり遠心力を利用して、特定の物質を分離する機械である。高速でないと意味をなさない。近頃、遅い速度のジューサーが人気という。これまでの高速回転のジューサーだと、例えば、ジュースと水が、二層に分離してしまうが、これは、栄養価も壊さず、全体に満遍なく混ぜ合わされたジュースができるのだという。
高速のものは細胞が破壊され、いわば果物が木端微塵にされたジュースということになる。
わたしは、この話を聞いて、進学塾のことを考えてしまった。合格実績を上げるために、3年計画を立てる。小4から小6の三年間で仕上げるというコンセプトである。この計画、つまりカリキュラムにしたがって、教材を作り、授業を進めていく。最終目標が、開成、麻布に置かれると、必然授業は加速度的に速くなる。あるいは加速度的に、知識の情報量も増えていく。これはまさに高速回転的発想である。
この回転に耐えられる者、つまりは、高速回転で仕上げられる者は、どのような仕上がりを見せていくのであろうか。高速回転は、果物の細胞を破壊することがわかっている。つまり、まずい、味の悪いジュースができるのだそうな。
ジューサーが、物理的法則で、語ってくれている。高速で回すよりも、ゆっくりと回す方が、とろりとした、つまりむらなく混ざり合った、美味しいジュースができるということを。
子どもの頭は、速く、高速回転で、仕上げるには、全く適しない。ゆっくりとむらのないように注意しながら丁寧に混ぜ合わせていく、これがもっともいい、というのは、わたしは直感的に悟っていたと思う。高速回転が細胞を破壊するというのは、進学塾の授業が、子どもの脳細胞を破壊していくというように、読み替えることができよう。
竹の会が、わたしが、なかなかできない子にでも、決して先を急がせることなく、何回でも、丁寧に繰り返し練習させるのは、ここはゆっくり回すしかないという揺るぎがないからである。
先へなかなか進めない。そうすると親の中には、「進捗はどうですか」などと責問してくる親もいる。わたしが、「よくない」と言うと、いや更には、「退塾も選択可能」と付け加えると、「分かりました」と退塾の運びになる。わたしは、進捗はよくないと結果だけしか言わない。わたしがどんなに丁寧にゆっくりと回転させてきたかなどということは語ることはない。親は塾にやっているのにという気持ちが強い。塾は成績を上げるところだといつのまにか自分の子の能力を棚に上げて、高いカネを払っているまだからと、結果だけ見ていらついている。
だから竹の会では、入会試験でチェックして、結果の出せそうな子に限って入会させるようにしている。さらに指導してみなければわからない、という、いわゆるグレーゾーンの子については、6か月の猶予指導期間後に、継続か否か、を判断する、という条件付き入会というのを認めている。この制度で、退塾するというケースもそれなりにいる。さらに、入会試験に合格したからといって、合格した子すべてが伸びるということではない。入会試験に合格したのに、伸びないという事例も少ないがある。むしろ仮合格の子が、伸びていき、中には合格したケースもある。入会試験の成績がいいのに、指導が困難という事例については、その原因については、結論が出ていない。入会試験の問題を予め知っていたということでないとしたら、家庭学習時間がないとかも考えてみたけれど決定的なことはわからない。
なぜできたのか、同レベルの他の問題がなぜ解けないのか、また説明してもわからないのか、疑問は謎のままだ。
竹の会の指導と他塾のやり方との決定的ない差異とは、何か。
これまで他塾の子たちを診る機会があるたびに、感じたのは、大手の掲げる大層なカリキュラムとは裏腹に、総じて基礎力のない、というか随分と基本的なところをおろそかにして、先へ先へとカリキュラムに促されるように先へ進める。かつて消化不良のままに難しいことばかりをやらされていた大手進学塾の子たちを見てきたが、似たようなことなのかなと思う。
あまりにも不甲斐ない思考のかけらもない実態であった。大手に二年、三年と通ってこれか、という思いがずっとわたしにはある。大手を典型とする他塾は、子ども一人一人を見ていない、全体的しか見ていない。大手が個人を見るとしたら、それは一部の天才について、細かな配慮をする場合に限られるのであろう。
竹の会の指導というとき、昔ながら、子どもたちはそれぞれプリントをやっているのですね、先生はわからないところを教える形ですね、宿題はないのですか、とか、竹の会に通っている親御さんたちには当たり前すぎて疑問にもならないことを訊いてくるわけです。おそらく大手で授業を受けてきた親子には、まず大手方式ありの疑問であった。大手に洗脳された頭には竹の会を理解することは難しいかもしれない。
竹の会は、個人を、徹底して個人を診ている、個人の日々の変化を、微妙な変化をも見逃さないという姿勢で、指導をしている。個人を継続的に診て、微細な変化も見逃さない。これを大手というか、巷の塾概念に無理にあてはめて、授業はない、プリントをやらせているだけ、そしてわからないときに教えてくれるだけ、というふうに理解して、竹の会のなにもかもがわかったみたいな顔をして、ダメだと断じる。まあ、そんなところだと思います。あるいは、個別指導ですねと無理にあてはめる。貧困な分類項目で分類した気になっている。
わたしが言いたいのはあなたたちが信じている大手などの塾に通わせて、二年経って、計算もろくにできない、割合も初歩のまま、これはどうなのですか、ということです。あなたたちが批判する、価値なしとする竹の会の子たちが、早い子で小4なりで、計算に熟達し、かなり高度な中学受験の割合の問題を解けるようになっているのは、どう説明するのですか、と言うことです。わたしは竹の会に通っている子どもたちの学力というものは、正確無比に把握しているつもりです。そのうえでこれからの指導の計画を立てています。ただし、中学については、やや別です。学校の成績を少なくとも定期試験はすべて報告してもらわなければ指導できません。模試についても、わたしのコントロールできる形でわたしが管理できないとわたしには何もできないということです。さらには、竹の会にいてわたしの指導を受ける限りは、自分の判断で勉強しては決してならないということです。今、何をやるか、次に、何をやるかは常にわたしの管理の中になければならないし、わたしが指示したことは完全にやりあげなければならない。市販の参考書は使ってはならないことも付け加えておきます。
その上で竹の会でわたしの指導を受ける中学生は、レジュメを出さないという典型行動、学校の方が先に進んでいる、竹の会が後手になる、などの事態が生じたらもうアウトですから、早々に退塾したほうがいいと思います。中学生はスローテンポでやってはならない。先へ先へと進めることです。これは竹の会が先へ進めるというのではなく、あなたたちが自分の行動力で先へ進めるということです。高速回転するのはあなたたちです。
もうおわかりかと思います。竹の会は、個人の勉強したいという意思を前提に、指導という竹の会独特の概念によって内包された諸々を実施しているだけです。その指導というのが、個人を徹底して「診る」というだけのことです。