2023.03.10
絶対に桜修館に入りたい‼️
合否を決めたのは、能力ゆえにではない。合格を引き寄せるのは、軽い鬱症状の子にある子なのではないか。自信を失くし、驕るところなど微塵もない。心理学的には、軽い鬱症状にある子ほどバイアスにかかりにくい、つまり、客観的な判断ができる、と言われている。
これと対極をなすのは、躁状態にある子である。昔から竹の会では、直前にやたらおしゃべりする子は、必ずと言っていいほど、落ちた。躁というのは、見合った努力はしていないのになぜか恐れを知らない人たちを指していう。何事にも楽観的にとらえる心のありようをした人たちがいる。驕りが核にあり、他人を見下す傾向にある。自尊心が異常なほど強く、なにごとにつけものごとを甘く見る傾向がある。こつこつ努力することは才能のない人がやることだと一蹴し地道な努力をする人をばかにする。それなりに能力の高い人、そういう人ほど他人を認めない。だから他人から学ぶということを負けと意識し受け付けない。自尊心、したがって自信の強い人は進歩がない。自分の中に架空の虚像を作り上げていく傾向がある。褒められるのが好きで、チヤホヤされると機嫌がいいが、正当な批判には激しく反発する。すべては「驕り」のなせる業にのである。
都立中は、能力差で、その成否は歴然としている。これは努力ではどうにもならない。成功するための最低限の能力というのは、リアルに「ある」のであり、これは塾に行ったからといってどうにかなるものではない。
私は一瞬で子どもの能力を見抜くことができる。都立中に受かる能力というものがわかってしまう。ただし、それは能力がない、ということであり、能力がある子が受かるかはわからない。高い能力を、持ちながら落ちた子ならたくさん見てきた。
何が違うのか。
能力は認められても落ちる子というのは、共通して、「驕り」のウィルスに感染している
驕りがあるから、余裕をこくのである。習い事、稽古事は、驕りがあるからできることである。そういうことにかなりの、時間を費やしても、自分は特別で受かるとなぜか楽観的でいられるのである。勉強時間量が、少なくても、受かると思うのは、驕りがあるからである。時間をいくら無駄にしてもまだ受かると余裕があるのは、驕りである。課題を出さなくても、受かると思うのは、驕りである。漢検をやらなくても、受かると思うのは驕りである。
人は「心配」だから、勉強する。自分には、そんなに能力がないと思うから勉強する。心配とは多少とも「鬱(うつ)」にある人が持つ予見能力である。自信がないというのではない。自分の能力からは心配になる、ということなのである。「鬱」は驕りとは無縁の精神世界に棲息する。鬱だから謙虚であり、徒に他人を「見下す」こともない。むしろ他人を敬い他人に学ぼうとする。自分が他人に劣ることを弁えての姿勢である。鬱にあ人は、物事を冷静に客観的に見ることに長けている。
◯高校入試指導のプロ
プロと素人の違いとは、なんであろうか。
かつて都立高校受験の女子を母親が管理したことがあった。直前には都立の過去問をやらせたようで一度だけその結果をメールに答案の画像を、添付して送ってきた。比較的いいときの得点である。こうしてわたしは一度も手をかけることなく本番となった。本番前日のこと、まだやってなかったという都立理社会の過去問をやってみた。よくなかった。特に、天体の問題がまったく解けていなかったので「どうしたのか」訊いてみた。すると「天体は苦手で、よくわからない」い言う。言葉を失った。過去問で手をかけるというのは、弱点の洗い出しの意味であり、弱点を見つけたらすぐ手を打つ、これがわたしのやりかたである。母親は得点だけ見て一喜一憂していただけのことか。今更どうにもできることではない。そのまま本番突入。後で聞いた話によると社会の答案を直前に書き直したらしい。しかも数個の記号を。ところが書き直す前の記号がすべて正解だったということだ。その年は合格基準点よりかなり高いところで合格ラインが動いた。内申から計算した合格基準には達していたのに落ちた例として記憶に新しい。
わたしは都立高校でも、難関私立でも、「手をかける」指導を得意とする。いちいち実力を確かめながら、模試や過去問を使って洗い出してきた、浮き彫りになってきた弱点を見つけ出し、手を加えるのを得意とする。家庭で素人の母親や父親が過去問を解かせてその得点を見て、合格点にいっているかどうかみて一喜一憂する、そういう遊びとはわけが違う。
手を加える、手を打つ、と言ったが。これはもうかなり前から。早くからそういうことをやるという前提がある。手を打てるだけの時間が当然予定されているからである。竹の会では、遅くても中2の夏には中3までの内容は終わらせている。終わらせるというき、それは単なる教科書の話ではない。中堅私立高校の過去問は解けるくらいにまで仕上げておくということである。その上で難関私立の対策が打てることになる。部活をやっている人はここのところですでに終わっている。竹の会で部活に勤しむ中学生が中1が終わらない前にほとんどいなくなってしまうのは、大半がこれである。もちろんなかにはそもそも中学の勉強そのものが不適応という生徒もいた。
わたしがプロだというとき、最低でも自主的に学習を進められる生徒を相手にすることは前提である。例えば、中学にもなって方程式の文章題が「わかりません」という生徒がいたけれど、こういう子の指導は100%無理である。もともと能力がないか、小学時代に基礎学習の訓練を怠ってきたしか、の理由になろうけれど、後者は、小学時代の放置のつけがまわってきただけのことである。いずれにしても終わっています。
中学で伸びるには、小学期での厳しい基礎学力の訓練がものを言います。もちろんそこそこの能力があることが前提です。発達障害の子どもが2割はいるという話ですが、こういう子は通常の教育課程は不可能と思います。ですからそういうことに目を瞑って、通常の子と同じように教育を施そうとするのは無理があります。
小学期の基礎学力は、小2から始めるのがベストです。今流行りの都立中高一貫校受検を仮目標にするのがいいと思います。他塾は知りませんが、竹の会では、すでに小2で小6の難関私立受験生が解くような計算問題を解けるようになる子も出ています。計算を操れるようになったら2~3年かけてじっくりと割合概念を教えていくのがベストの方法です。竹の会ではそのための指導体系を確立して久しい。ミクロマクロと呼ばれるこの方法はたちまち小学生を堀合達者にしてしまうでしょう。割合といいながら、割合にとどまらない。1当たり量、縮尺、面積図、ダイヤグラムなど多くの解法テクニックで知見をひろげていきます。
小学で基礎学力を鍛え抜いたからこそ中学で飛躍できるのです。中学で突然成績とろうと勉強しても無理です。
落ちる人はここぞというときにカネを惜しむ人たち!!
特に直前の季節講習にでない人たちというのがいますが、これは例外なく自滅、退塾していきます。また、できるだけ少ない額で少ないコースを選択するということをやっているといずれ志望校は下げざるを得ないところまでいきます。
かつて30年も前になりますが、竹の会には竹の会のすべての指導時間に出席できて指導を受けられるというコース(Sコース)がありましたが、実は竹の会の成功者はすべてこのコースの出身者に限られています。このころから指導は受けられるだけうけたほうが合格するという真理がわかる人にはわかっていたのです。よくまだ小2なのでとか、入会したばかりなのでとか、最初の指導から指導を少な目にとするひとがいますが、こういう人は季節講習も出ないことが多く、受検に成功した例はないのです。こういう人はなにかとそういう態度に出るもので、結局指導のタイミング、機会を逸することになってしまうからです。竹の会の指導は多く出れば出るほどいい、これは竹の会の子たち、親御さんにわかりきったことです。