2024.09.06
網羅性完璧完全絶対の破滅
少なくとも竹の会はこれはできないことを熟知している。例えば、開成に受かるために、何もかも完全に仕上げなければならないか、という話しである。
そもそも受験というのは、完全でなければ受からないか、というとそんなことはないわけで、受験は、本来未完成な受験生たちの鬩ぎ合いなのである。
そう未完成でも受かる、それが試験の本質である。
完全にしようとすると必ず破綻する。網羅的にしようとするといずれ破綻する。完全主義は受験とは異端の世界にあるものである。
網羅的テキストは、君たちを大いに興奮させることでしょう。これだけやれは「受かる」という確実さを錯覚させるには十分に魅力的だからです。しかし、私たちには忘れてはならないことがあります。それは私たちが、如何にも不十分・不完全なことを生来の本質とするということです。
重心は、常に自分にあるということを忘れてはならない。
自分が不完全だと十分わかっていれば、そもそも完全など求めたりしないはずである。どこまで不十分、欠缺していていいのか、と常に限度・限界を探るであろう。
わたしはそういう前提で、開成高校の指導をしたつもりである。最初から完全など求めていない。
敵は大手サピックス、早稲アカのトップ層、天才軍団である。そういう連中を一気にごぼう抜きすること、それを密かに狙った。数学、英語、国語それぞれに秘策を講じた。懸案の理科、社会、早稲アカは、様々な網羅的なテキストを用意していた。わたしは、何点取れば全国順位100番内に入れるか、常に想定してやるべきものを決めた。そのために何を使うか、特に、理科、社会は決め手となる教材がない。何かを1冊やればいい、という、その1冊がどこにもない。早稲アカなどの予備校ものは何か違う気がした。これを使っている早稲アカなどの天才軍団の大半はやはり落ちるのであるから証明されている。つまりそれを使っても100%ではないのである。早稲アカの網羅・完全テキストで満点が取れないのなら、それは網羅ではない。違うのだ。
わたしの「社会ポイント集」「理科ポイント集」は網羅性はないが、ピンポイントで、本質は突いている。これから新しく書く、筑駒、開成のための理科、社会は、その延長線上にあるであろう。わたしの指導法で、筑駒40人枠のおそらく上位3番内には入れたかと思う。駿台模試全4回でも常に3番内にあったのだから、ただの推測ではない。
わたしはいろいろな策を講じたので、果たしてどの戦略がよかったのか、正確にはわからない。ただやったことは至極単純なことであった。アウトプットによって弱点を炙り出しその対策をとる、わたしはこれを「手を打つ」と言った。わたしはギリギリまでこのシンプルな手法を取ったに過ぎない。
そうわたしの方法は常に、検査と処方、この2点セットである。竹の会では普段からアウトプット中心の指導をしている。これはアウトプットによってその子の検査をしていると考えてほしい。竹の会にいたことがあるという親がネットで「家庭で教えてはならない」というのはおかしい、と書き込んでいたが、竹の会の教材は方法はどうでも「解けば終わり」、めでたしめでたしというわけではない。わたしは検査をしているのだ。本人が今の能力でどこまで解けるか、どのあたりが解けないのか、どの類いの問題で途方にくれているのか、それを知りたいのだ。飽くまでも検査なのだ。検査数値を親が勝手に操作していいはずがない。子どもが出してきたレジュメを前提に次の手を考えるのであるから、もし親が加担していたならわたしはそれを子どもが解いたものとして誤解して次の手に進むことになる。これまで親に教えられた子の受検の失敗は枚挙に暇ない。勘違いした親が本気で怒る。そういう親は最初から大手に行って、手伝って答えさえ出せばいいということでやっていけばいいのだ。竹の会とはわたしの指導の枠内での子どものコントロールであり、竹の会のレジュメとはわたしの検査の道具に過ぎない。